大学入試の在り方について考える
「入試問題出題ミスについて考える(1)」の文章を書いたあとに、朝日新聞社のWEBRONZAにこのテーマについての論考が3本掲載されていることに気づいた。(http://webronza.asahi.com/science/themes/2018020800004.html)
科学・環境 阪大・京大の出題ミス騒動に巻き込まれて
吉田弘幸 2018年02月13日
入試ミス問題に対する現場の言い分
須藤靖 2018年02月09日
科学・環境 阪大、京大は入試でどこを間違えたか
延與秀人 2018年02月06日
このうち、延與氏のものは出題内容について論じたものであるので措いておいて、吉田氏と須藤氏は出題方法や入試の仕組みを含めて意見を述べている。読んで同感するところがあったので紹介し、コメントしておきたい。
吉田氏は、大阪大学の問題について予備校毎に解答が違っていることを指摘した人である。それが半年以上も過ぎて今回騒ぎになった事情を説明してくれている。大阪大学当局が当初は正面から対応しない態度だったのが文科省への働きかけの後、入試ミスを認めて追加入学者も発表したこと、そして、その間に、知人から京都大学にも入試ミスがあったことを知らされ、それも指摘したので京都大学でも同様の対応になったということである。
こうした処理の過程も興味深いがここではそのことは問題にしない。むしろ、吉田氏は物理を予備校で教えている立場から、物理の問題に間違いがあったことが許せなかったと発言していることに興味をもった。彼は、大学は解答例を公表することがこうしたことを防ぐのに役立ち、それはひいては中等教育の質の向上に貢献すると述べている。
私は、前稿で日本に蔓延している正解主義を批判したが、物理学ならパラダイム転換はそうそう頻繁にあるものではないから、入試問題に正解を設定することはそう難しくないことは認めたい。ミスが生じやすいとすれば、正解を選ぶための選択肢をつくるときであり、それは研究者がそういう考え方に慣れていないからではないかと考える。だから、吉田氏が出題の仕方について、択一式ではなく物理オリンピックのような論述式の問題にすべきで、解法も含めて受験生に論述させることによって出題ミスを防げるということはその通りだと思う。その方が教育改革を進める上での中等教育へのメッセージ効果という意味でも望ましいことは確かだろう。
吉田氏は出題ミス自体を問題視しているのではなくて、学んでいる受験生に混乱がないようにすることが重要だとし、そのために出題方法を変更すべきだと考えているのである。
他方、須藤氏は物理学者で、出題に廻っている立場からの発言だ。 こちらの主張も明快である。
「問題の本質は、"大学入試制度は完璧であるべきで、得点の1点差が重要である"という間違った思い込みにあるのだ。」
「そもそも、入試問題作成は、教員にとっては、労多くして功の少ない業務の典型例である。時間をかけて独創的な問題を作成しても、高校の指導要領の範囲内で本当に解けるのか、他の解答の可能性はないのか、など、すぐにはわからない数々の確認事項がつきまとう。」
「つまり、”大学入試に完璧はありえないし、それを求めること自体が間違っている”こそ私の主張である。総計が500点満点の試験の場合、10点程度の違いは、受験生の能力の違いを反映しているはずはなく、単なる誤差だと考えるべきなのだ。」
「とはいえ、現在の制度では1点差で合否が決まり、受験生個人にとってその違いは無視できない影響を及ぼす。では、どうすべきか。これについてはすでに過去に書いた通りだ。」
として、ボーダー周辺の受験生についてはランダムに選ぶとか、複数の大学の試験を共通化するなどの方法を提案している。ここで前提になっているのは、受験生の学力は評価可能ではあるが、細かく点数化することには意味がないので、おおざっぱに選別する仕組みを大学を超えて共同でつくることで、受験生にも大学にも大きな負担がないようにするということである。
須藤氏は、現行の設問でも入学後に必要な能力を評価することは可能であるという立場だ。ただし500点満点での1点差を問題にすることには意味がないが、もう少し大雑把に、たとえば10点刻みの点数なら合否判定はできるという考えのように受け止められた。吉田氏が出題を論述式に変えることを提案したのに対し、須藤氏は出題方法は変えずに、入試の仕組みを変えるのと評価方法を変えるのとを提案している。出題方法を論述式にすれば採点の手間が大きくなるのに対して、大学への負担を増やさずに今よりはよい方向を目指す考え方だ。
だが、1点単位の点数差を無視してくじ引きにするという考え方は、日本人が試験に抱いてきた、公平な条件の下で受けてその成果が公平に判定されるというだけでなく、努力の結果が合否判定に反映されるという感覚からすると、少々問題ある提案であるかもしれない。日本社会はどれだけの能力があるかではなく、能力は努力次第で代替できるのであり、努力も含めて評価すべきと考えるから、些細な1点差まで評価に含めることが期待されていたのである。
今回、受験産業の所属者が大学受験にクレームをつけたことも注目される。これは入試自体が変質しようとしていることを示しているのだろう。実は、入試に関して大学や高校の教員よりも塾とか予備校の教員の方がしっかりとその本質をつかんでいるはずで、今回のケースは、受験のプロが、アマチュアがつくって固定化したままになっている制度の矛盾を指摘したと考えることもできるだろう。
この問題を解決するには、大学に入学するための能力評価はいかにあるべきか、 それをどのように測定するのか、その際の公平さとはなにか、受験生やその親も含めた社会に対して説得的な変更は可能なのか、変更するにあたっての大学側のコストはどのようなものなのか等々の困難な課題に直面する。だが、私も含めてそれぞれの表現の違いはあるが、学習者の能力を測定する仕組みとしての入学者選抜の方法は、徐々に変化すべきだし、変化しつつあるとしている点では共通していると思われる。
今が受験シーズンであり、その渦中にいる受験生にあまり幻滅するメッセージを与えたくないという配慮がいろんなところで見られる。だが、本来、高等教育を志向するものは、受験という制度が抱えるこうした課題を直視することもまた必要である。言うまでもなく、教育関係者もメディア関係者も大きな流れを意識すべきだと考える。
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