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2024-02-21

市川沙央『ハンチバック』と読書のバリアフリー

ふだん小説はほとんど読まない。そんな私が 最近,市川沙央『ハンチバック』という本を読んだ。芥川賞受賞作を受賞後1年以内に購入して読むことなど初めての体験だ。それというのも,この本が身体障害者の読書バリアフリーを一つのテーマにしているという声がさまざまなところから聞こえてきたからだが,もう一つ,かねてより『文藝年鑑』という定期刊行物にこの1年間の「図書館」についての短い報告を書くことになっており,そこにこのことがもつ意味について書いてみたいと考えたからだ。なので,これから書くのは,『文藝年鑑』(6月末刊行予定)で書き足りなかったことを補足するものである。

この物語の主人公は,首や背中に重い障害をもっていて,常に人工呼吸器をつけ痰吸引が必要であることによって車椅子生活を余儀なくされている。その彼女はウェブにポルノ記事を書くことを趣味(生活費の足し?:といっても主人公は親からのかなりの財産を遺贈されており生活に困っていないという設定)とし,他方では,大学通信課程で卒業論文を書いている。この短い小説では,彼女のリアルな生活空間の描写のなかに,彼女が執筆しているハプバ(ハプニングバー)記事や女性向け官能ライトノベルの妄想空間の描写が散りばめられ,最後の部分では両者が同一空間に集約されることになる。そして,市川氏自身がこの主人公と類似の障害をもっていることが同書の奥付にある著者紹介に明記されているし,それはメディアを通じて表出されている。ということは,この小説を手に取った読者は,リアルな著者の人となり,そして著者が描く主人公の言動,さらに,主人公が執筆する記事と少なくとも三重構造を読み解く必要がある。

小説としては,重度の障害をもつ女性の性の(ということは生の)欲望が一つのテーマである。そのことが障害者が生きることにどのような負荷を与え,そのためにどのような過程が語られているのかについてはここでは触れない。だが,著者がそして著者が描く主人公が読んで書く行為を中心に生活が廻っていることは明らかであり,それが性(生)の描写と密接な関係をもつ。読み書くことそのものが生きることに組み込まれるとき,読書のバリアフリーがもう一つの大きなテーマとなる。彼女自身が授賞式の記者会見においてそれを強く訴え掛けた。そしてその重要性は文学関係者にも波紋を呼び起こした。日本ペンクラブでは「読書バリアフリーとは何か―読書を取り巻く「壁」を壊すために」というシンポジウムを開催した。マスメディアでも,たとえば朝日新聞の社説(2023年8月4日付)は,「市川さんの訴えは、本を自由に読めない人々の苦境を厳しく世に問うものだ。多数派は現状で十分でも、一部の人が切実な困難を抱えている場面は読書に限らないだろう。特にデジタル化がバリアフリーの実現に果たす役割は大きい。少数派の人々が置かれた状況に広く考えを巡らせる機会としたい。」とまとめている。そのことに異存はない。

だが,著者が次のように書くとき,バリアフリーというよく使われる表現で済ますことができない,厳しい指摘がそこにあることを感じることができる。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、―5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた。(市川沙央『ハンチバック』2023, 文藝春秋, p.27)

こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに,紙の匂いが好き,とかページをめくる感触が好き,などと宣(のたま)い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい...出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ,と私はフォーラムに書き込んだ。(同書, p.34-35)

著者は,授賞式や前後のマスメディアの取材に対して,小説の主人公と類似の障害を自ら晒すことで読書という行為を支えてきた「健常性」が無意識の差別となっていることを訴えた。それは,2019年6月成立の「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律」(通称「読書バリアフリー法」)が,障害の有無に関わらず、すべての人が読書による文字・活字文化の恩恵を受けられるようにするとしたことへのアンチテーゼでもあった。新法で目標とされる「読書のバリアフリー」は特定のタイプの障害への対応とはなっても,読書行為において生じる多様な障害を救うものとは必ずしもならないからである。

図書館(公立図書館,点字図書館)もかねてより「障害者サービス」を実施することによって自覚的に読書のバリアフリーに取り組んできた。とくに視覚障害者のための点字資料や録音資料,大活字本,拡大読書機の提供や,対面朗読サービス,DAISYやサピエ図書館などの電子的な仕組みを提供してきたが,これらで「健常性」との格差を埋めることはできない。5つの健常性のどれもが当たり前としてきたものの一つか二つに対して手を差し延べるくらいしかできていない。それどころか,著者は主人公に次のように語らせている。

5000円以上する専門書だろうが,新品が流通していれば私は新品の本を買う。図書館の本は汚くて触れないし,そもそも図書館に行く体力もない。(同書, p.43)

図書館の本を利用することはそこに行って手に取って借りてくるという行為を前提としているのに,どちらもできないという。行くことについては何らかの対策はあるだろうが,汚くて触れないということについてはどうしようもないが,これは電子書籍の可能性を訴える伏線でもある。

博物館や図書館や,保存された歴史的建造物が,私は嫌いだ。完成された姿でそこにある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる,生き抜いた時間の証しとして破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし,多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。(同書, p.46)

ここに至って,主人公(著者?)が憎んでいるのが,古いものが時間を超える特性をもっており自らの身体が常に壊れやすいことにこれを対置していることが分かる。図書館の本が汚いというのも,古さのマイナス面を象徴的に示そうというものだろう。著者は,その意味で電子書籍は福音であり,だが,文芸でも学術でも多くの著作が電子的に流通していないことを問題だと発言している。(NHK「バリバラ」2023年7月28日 愛と憎しみの読書バリアフリー)その主張は,自身が他方で特定の文芸作品をテーマに学術論文を書いていたことに関わる。彼女にとって,論文を書くに当たり参照すべき資料がすべて電子的に提供されることが必要なのだが,必ずしもそうなっていない。

彼女の訴えの正当性を認めた上で,ここで敢えてこれを拡張する議論をしてみよう。それは,デジタル化が唯一の解決策であるという誤解を避けたいからである。先の5つの読書の健常性である「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること。」これらを前提とした社会は確かにある種の身体障害をもつ人にとって超えにくいバリアになっている。しかしながら,読書のバリアフリーは電子書籍を整備することで解決するのだろうか。電子書籍化が進まない理由としていくつも挙げることができる。まずは,著作(権)者や出版者が積極的にデジタル化を推進しなければ進まない。また,これを図書館などの公的費用で提供するためには,従来の紙資料が定価販売を前提としていたのに対して,紙資料の2〜3倍の価格設定で提供しなくてはならないが,その財源をどうするのかの議論が不足している。

そうした流通や経済面の問題を解決しなくてはならない。点字図書館も含め図書館が行う障害者サービスは公的仕組みで可能な範囲で実施されている。近年,学術論文のオープン化が進み,国会図書館デジタルコレクションが充実している。これはあらゆる人にとって朗報であり,そうした仕組み外にある比較的新しい本の電子図書館的仕組みや地域資料や郷土資料のデジタル化は図書館の大きな課題になりつつある。

だが読書のバリアフリー問題は,そのような制度や仕組みの問題を超えて,文芸とか学術とかを支える前提に本質的な問いを突きつけ,解決することが要請されているととらえるべきではないか。つまり,バリアーはもっと多様に存在し,その解決法ももっと多様なのではないか。たとえば,ディスクレクシアの人はどうなのか,日本に住んでいる日本語を母語としない人はどうなのか,生まれてまもなくスマホとかタブレットの動画やゲームがお守り役となって育てられた子どもはどうなのか。

要するに現代社会においてリテレートであるために必要な条件は何なのかという問いが浮かび上がってくる。あるいはリテレートであることが本当に必要なのかも含められる。ネットリテラシー,メディアリテラシー,科学リテラシー,医学リテラシー,経済リテラシー等々の重要性が説かれる。しかしそれ以前に,読み書き能力と呼ばれるもともとの意味のリテラシーそのもののとらえ方すら,一様ではなくなっている。

最近,今井むつみ, 秋田喜美著『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』 (中公新書)が話題になった。乳児が生まれてまもない時期に発するオノマトペに対して,母親や周囲の人がどのように応えるかが言葉の獲得に大きな影響を与えるという話しである。かつて「文学国語」と「論理国語」を対立的にとらえる議論があった。市川氏の問いかけはすでに一定のリテラシーを獲得した人のものであって,現実にはリテラシー自体の獲得が危うくなっている可能性があるし,その存立基盤である家族や社会,近隣コミュニティがきわめて多様化している。SNSで新しい言語環境がつくられると言われるが,電子書籍を読む行為と紙の本を読む行為は別物であり,その言語環境に本を読むという行為は位置付けられていないのかもしれない。読書のバリアフリーあるいはリテラシーという概念そのものが危うくなっているのではないか。

市川氏の問いかけから発して話しが拡がってしまった。彼女のように作家活動を中心にSNSも自らの発信手段として重視している人が,文学出版における新人の登竜門とされる芥川賞を受賞したことの意味は大きい。これは身体障害者が自らの障害に対するバリアフリーを訴える機会になるだけでなく,著作そのもの表出の仕方を通じて読み書きという行為そのものの現代的意義を考える機会になるのではないかと考える次第である。