ページ

2021-03-15

「サブジェクトライブラリアンの将来像」に参加して

本日3月15日、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門の主催で標記のシンポジウムがオンラインで開かれ参加した。この図書館は昨年10月に開設され、この4月からここに3名の「サブジェクトライブラリアン」が配置されるということである。東京大学にこうしたポストができるというのは画期的なことであるだろう。

http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/mh4

プログラム

[ 第1部 ]
9:30 〈開会の辞〉 蓑輪 顕量(U-PARL部門長、人文社会系研究科教授)
9:35 〈アジア研究図書館の紹介〉 小野塚知二(アジア研究図書館館長、経済学研究科教授)
9:50 〈趣旨説明〉 中尾道子(U-PARL特任研究員)
10:15 〈報告1〉 吉村亜弥子(シカゴ大学図書館日本研究ライブラリアン)
■  米国サブジェクト・ライブラリアンの現状:「博士号オンリー」日本研究専門ライブラリアンによる現場報告
10:35 〈報告2〉 福田名津子(松山大学人文学部准教授)
■  通訳としてのサブジェクト・ライブラリアン:図書館の言語、研究の言語
10:55 〈報告3〉 渡邊由紀子(九州大学附属図書館准教授)
■ 九州大学大学院ライブラリーサイエンス専攻による大学図書館員の人材育成
11:20 〈来賓特別報告〉 三宅隆悟(文部科学省研究振興局参事官(情報担当)付 学術基盤整備室長)
■ 大学図書館に対する期待 -大学図書館を巡る政策動向の視点から-
11:35 〈コメント1〉 大向一輝(人文社会系研究科准教授)
11:45 〈コメント2〉 北村由美(京都大学附属図書館准教授)

[ 第2部 ]
12:05 〈パネル・ディスカッション〉
モデレーター: 蓑輪顕量(U-PARL部門長、人文社会系研究科教授)
パネリスト : 小野塚知二, 吉村亜弥子, 福田名津子, 渡邊由紀子, 大向一輝, 北村由美
12:50 〈閉会の辞〉 藤井輝夫(理事・副学長)

<感想>

最初の主催者側の説明で、新しいポストは博士号をもっている人を対象にしており、その意味で研究者とアジア資料を結んで研究者的視点と図書館員的視点の双方を生かした役割を果たすことが強調された。ただ、これから始まるので、すでに動いているところの関係者から実態や課題などを聴取したいというのがこの会の目的だったようだ。今回の登壇者のうちサブジェクトライブラリアンとしてのキャリアがあったと言えるのは最初の吉村さんと次の福田さんであり、その次の渡邊さんとコメンテータの北村さんはどちらかというと教育者的な位置づけにある図書館員であり、コメンテータの大向さんはシステム開発から図書館に関わった研究者という位置づけだ。登壇した人たちはいずれも博士号をもっていた。

最初の報告者である吉村さんは修士課程からアメリカの大学院で研究し現代民俗学の博論を書いた人で、長らくシカゴ大学の東アジア図書館で日本語コレクションのサブジェクトライブラリアンをしてきた。田中あずささんのサブジェクト・ライブラリアン:海の向こうアメリカの学術図書館の仕事でも紹介されているアメリカの事情はある程度は知られているが、生の声をきくとそれはそれで非常に参考になる。アメリカのサブジェクトライブラリアンは専門領域とLISのダブルマスターが標準だが、主題領域の博士号しかもたない人も一定割合いるという。また、司会者からあったサブジェクトライブラリアンのキャリア形成についての質問では、多くの場合は一旦その職につけば長く勤めるのが普通であり、せいぜい一回ほかに転職するくらいではないかということだった。つまり安定した職として存在しているということである。また、なかでのプロモーションは存在しており、それは職務の評価と表裏の関係にある。シカゴの場合は、教員職と事務職員のあいだにacademic appointeeと呼ばれる教育研究の専門職があって、サブジェクトライブラリアンはその位置づけにあり待遇は悪くはないとのことだった。

福田さんは社会思想史研究で学位をとったときに、ちょうど一橋大学にできた社会科学古典文献センターの助手として採用され、10年間勤めたときの経験を話してくれた。現在は別の大学にいるのでそのポストは恒久のものではないのだろうし、お話しのなかで主題研究者としての研究時間があった方がよいという意見があり、どちらかというと研究者の意識が強い方のように伺った。それに対して渡邊さんと北村さんは、ファカルティステイタスをもった図書館員としての仕事をしている人としての発言やコメントだったと思われる。アメリカのサブジェクトライブラリアンは専門職としてのステイタスと待遇があり、また、日本フィールドのサブジェクトライブラリアンだけで50人程度いるというから、場合によってはその間の職の異動もありうる、人材のプールが可能である。日本ではまだこうした職の位置づけは模索中であることがわかる。

そのあたりの関心は主催者も参加者も共有していたらしく、最後の方の質疑では職の在り方に集中していた。とくに「博士号をとった若手研究者の腰掛けの職」にならないかという質問については、そうでないものを考えたいというのが公式見解であったが、実際に「日本型サブジェクトライブラリアン」がどのようなものなのか、いかにして可能かについてはいろいろと考えなければならないものと思われる。

まず、職の中身がどうなるのかについては一応のものは示されていたが、主題知識をもってライブラリアンの仕事をするというときに主題知識はいいとして、ライブラリアンの仕事をどう考えるのかである。選書、資料組織化、レファレンスサービスに資料展示やデジタル化などが上がっていたと思われる。しかしながら、これらの知識や技術をどのように獲得するのかの話しがまったくなかった。採用にあたって司書資格は問わないのだろうが図書館員としてのキャリアがあることは有利になるのか、入ってから図書館情報学について何かの研修があるのか、それは自己研修に委ねるのかといったことである。実は図書館員がもつべき主題知識と研究者がもつ主題知識も同じではないはずでそのあたりの摺り合わせも必要だろう。こうしてみると、アジア研究図書館の運営の前提として、このポジションに就く人は最低、選書と展示企画ができればよいし、レファレンスサービスも含めて研究者がもつ主題知識でこなせると考えているフシがある。どうもこのあたりに、先の「腰掛け」の指摘があながちジョークですまされない憶測をもたれる理由がある。

サブジェクトライブラリアンとして仕事をしてきたシカゴ大学の吉村さんも一橋で仕事をしてきた福田さんも、その職に就く前に図書館でアシスタント的な仕事をしていたという話しがあった。また、九州大学の渡邊さんからは、今は国立大学職員は勤めながら自分の大学の大学院に入れる仕組みがあり、彼女の図書館に他の国立大学から異動してきて大学院の博士課程を修了した人が二人いるという発言があり、博士号を持った人を採用するだけでなくて、図書館員が主題分野の博士号をとるという道もあるのではないかという話しをしていたのは示唆的だった。(*追加注1)また、今日の話しにはなかったが、国内にはアジア系の文献を扱うサブジェクトライブラリアン的なポジションは国立国会図書館やアジア経済研究所にもある。他の国の機関の職員やそれ以外の専門職的人たち、また、アメリカのサブジェクトライブラリアンとの人事交流も視野にいれるべきではないか。

ただし気になる点として、この研究部門は寄付口座で運用されているのでこれらのポストは時限付きになるのではないかということがある。このあたりが「腰掛け」の議論と相まってよく分からなかった点である。シンポジウムの最後に次期東大総長になる藤井副学長の挨拶があったがその点についての言及はなかった。これが定員に組み込まれるような恒久的なものになるのかどうかは重要なポイントである。このような公開の場でサブジェクトライブラリアン構想について語ったからには、「日本型」という表現で逃げないで本気でこの職をどのように構築していくのかについて疑問に答える必要があるように思う。また、4月から採用ということだからすでに内定している人がいるはずであり、それらの人たちが実際にどのように仕事をしていくのかについて見守っていく必要がある。いずれにせよ、このポストは今後の図書館専門職のキャリア形成についての試金石になる可能性がある。(*追加注2、追加注3)

*追加注1(3月16日) その後読み返して渡邉さんの発言は、主題分野の博士号ではなくて、彼女が教鞭をとっている九州大学の大学院ライブラリーサイエンス専攻のようなところを指しているのかなとも思えた。となると、サブジェクトライブラリアンになるためには最低でも主題分野でマスターも必要になるだろう。そういえば、現在、国立大学図書館の正規職員になる人はマスターをもっている人が多いという話しがあったことも記憶している。つまり、主題分野の博士をもつという選択肢と主題分野の修士+LIS関連の博士という選択肢の二つがありうるということだと思われる。

*追加注2(3月18日) 3ポスト(准教授1、助教2)は昨年秋に公募されていたことに改めて気がついた。それはここに残っている。ただし、「公募要領」はすでに削除されている。ここの説明を読むと、「アジア研究図書館は、研究支援及び研究機能を持った図書館になります。その中核を担う方が、このたび公募しますサブジェクト・ライブラリアン教員です。従来、東京大学の図書館には教員は配置されてきませんでしたが、昨今の研究領域の多角化、情報の多様化の現状に鑑み、大学教員または学生(学部学生・大学院学生)の研究支援ならびに蔵書構築等の図書館運営を主たる任務とする教員を、正式に附属図書館に配置することになりました。」とあり、<正式に配置>となっている。正式の中身を確認したいのだが、今となっては分からない。どなたか<こっそりと>教えてもらえませんか。

*追加注3(12月11日)9月15日づけで匿名の方からのコメントがあり、このポストは附属図書館に正式についたものであることが示されていた。(「こっそり」だったので今まで気づかなかった)それによると、UPARL(寄付研究部門)は大学当局にこういうポストの重要性を提案し、それを承けてこれらのポストが新設されたらしい。改めて、UPARLと附属図書館との関係を整理してみると次のようになる。東京大学アジア研究図書館は、2010年から進められてきた、東京大学附属図書館・新図書館計画の中核として、2020年10月に開館したもので、アジア地域の多言語資料を対象に総合図書館に開架スペースと書庫をもって図書館サービスも行う施設となっている。アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門(UPARL)はそこに設けられた研究部門であり、それとは別にアジア研究図書館研究開発部門(RASARL)が設けられてこのブログで紹介したサブジェクトライブラリアンはここに所属する。HPを見ると本文で書いた公募によってすでに3人のスタッフが着任していることも分かる。また本文で書いた寄付講座による人事の不安定性の心配はこのコメントによって払拭されている。コメントありがとうございました。しかしながら、着任したスタッフのサブジェクトライブラリアンとしての働きぶりについてはまだよく分からないところが多い。






2021-03-01

情報爆発、万葉集、苦学そして日本語

恒例の月刊『みすず』2021年1月/2月号「最近読んだ本」への寄稿です。 

なお、4以外は拙著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)でも取り上げています。このうち、1は図書館情報学を学ぼうという人は必読の基本書ではないかと思います。(3月22日タイトルを変更)


根本彰(図書館情報学・教育学)

1 アン・ブレア(住本規子ほか訳)『情報爆発—初期近代ヨーロッパの情報管理術』中央公論新社、2018年

原書名はToo Much to Know(「知識の増加に追いつけない」)で、「感染爆発」が現実のものとなった今なら訳書のタイトルはこうはならなかったろう。この本は15世紀に活版印刷術が始まってからのヨーロッパにおいて、爆発的に増えた書物の知識をどのように管理しようとしたのかを克明に明らかにしている。写本の時代には書物と共存していた人間が急激な知識増大に、種々の注解や梗概、欄外注釈、ノート作成、索引や書誌の作成、事典や辞書の編纂で対応した。そして、この知的営為は18世紀末まで 三〇〇年以上続いたという。それにしても、内容をよく理解できない言葉の氾濫を管理しようとすることは、正体不明のウィルスと戦うのとよく似ているのではないか。そして、疾病への対応が臨床医学につながるように、情報爆発への対応は19世紀以降、学校教育、大学、出版、そして図書館の制度化につながっていく。

2 品田悦一『万葉集の発明』新装版 新曜社、 2019年

日本が19世紀後半、開国によって近代世界に足を踏み入れたとき、ヨーロッパが過去四世紀にわたって蓄積してきた近代知が一挙に入ってきたから、「情報爆発」の程度はヨーロッパが経験したものの比ではなかったはずなのだが、たんたんと西洋化が進んだように語られているのはなぜだろうか。そこには明治政府が念入りに準備した知の選択的導入の仕組みがあったと考えられる。そのことを示唆するのは「令和」の年号が決まるときに話題になった『万葉集』である。国民歌集としての『万葉集』が明治以降の「発明」だという視座から、日本では知が倫理や美意識を伴ったカノン(正典)を構築し、これが政治的に利用されてきた状況を明らかにしている。本書は以前から読まれていた研究書だが、改元を機に新装版が出された。

3 伊東達也『苦学と立身と図書館—パブリック・ライブラリーと近代日本』青弓社 2020年

明治期の知の方法の選択導入を示すもう一つの側面として、学校教育と図書館との関係がある。図書館は本を手軽に借りる場、あるいは市民の憩いの場になりつつあるけれども、同時に若い人の試験勉強の場でもあることは今も変わらない。この本で強調されているのは、近代日本で採用された教育観において知が他の価値の道具とされたことである。上位の学校に進むことが立身出世の手段であり、それを駆り立てるために試験が必要とされている。図書館は知の蓄積の場であったはずだが、学校外での試験勉強の場として位置づけられてきた。本書は、明治初年に地方から上京した青年たちが東京書籍館を自学勉強の場とすることから始まる図書館利用が、明治末に帝国図書館と名前が変わった頃から、試験合格そのものが目的に転換していった過程を描き出している。

4 小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』徳間書店、2018年

ヨーロッパにおいて知識人あるいは学習者は、蓄積された知から必要なものを取り出すものとされ、そのための方法が発達していた。これに対して、日本では知は外部から注入されてそれを要領よく処理する能力が試験によって序列化される仕組みが発達した。この違いの前提は、知(あるいはそこに仮定されている真理)が言葉のうちに存在しているのかどうかにある。本書は、西欧の知が言葉に真理を認めるロゴス中心主義であるのに対して、日本ではあらゆる語りの相互関係で真理らしきものが決まるという。なるほど、だから日本では書いたものに対する信頼がなくて、密室で何かが決まることが常態化しているのかと納得する。しかしそうなると、ロゴスが失われ、知が手段化した社会において、私たちは何を指標にして生きていくべきなのかその根拠がますます見えにくくなる。