6月13日(木)の夜に岩波ホールで「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観た。200人は入るホールに50人程度の入りだった。言われている評判より少ない感じだが、それはどうも終了時刻が21時50分に設定されていることに原因があるようだ。上映時間が3時間25分で途中で5分ほどの休憩が入るのでこういう時間になる。同館のサイトによれば、昼はそれなりの入りのようなので、この時間帯だと見合わせる人が多いのだろう。複数の観た人の話しでは、長いので座布団が必携とか、だんだんと疲れてくる、くらくらしてくるというのと、長いけれども飽きないで観られるというのとがあった。
というわけで、最近こんなに長い映画を観たことがないのでどうなることかと戦々恐々ではあったが、結果的には集中して観続けることができた。しかし、最近は名画座系でも座席は快適なところが多いから、前の座席の人の頭が画面の一部を遮る可能性があるこのホールのつくりの古さは少々気になった。
映画について
さて、映画そのものだが、「ドキュメンタリーの巨匠」フレデリック・ワイズマン監督が比較的短時間のあいだに、この図書館(NYPL)で起こっていることを撮影し、断片をつないで編集して見せてくれるものだ。本館、複数の分館、地域館の建物や内装、イベント(とくに何人もの作家が自著について語る様子)、内部でのサービスの有り様、経営面の議論などを紹介している。図書館という地味に思えるものを紹介したドキュメンタリーがなぜ一本の商業映画になるのか、また、それがなぜ数々のドキュメンタリー部門の映画賞を受賞しているのか、さらには、それがなぜ日本でも上映され、多くの人が見にくるのか。このあたりが長年日本の図書館の不遇さに嘆いていた私には不思議に思われたので、どう見えたかについて書いておく。
まず、ワイズマンは別のインタビューに答えて、この図書館の利用者でも何でもないという。人に紹介されて、ここのおもしろさを知り撮ってみようと思ったと発言している。その「おもしろさ」は確かにこの映画全体にあふれていた。だが、監督がおもしろいと思て取り上げ、私も同様の感想をもったものが、映画評論家に高く評価され、日本のメディアでも取り上げられるのかについては考えてみる必要があるだろう。それをあえて説明すれば、ネット社会の到来による情報アクセスの利便性と、その裏側で生じている経済格差、そして、さらにはアメリカが抱えている人種問題が扱われ、それが現代の状況と対局にある論理にまとめ上げられているからである。つまり、ポストトゥルースの状況において、図書館が知の真理性の最後の砦になることを主張しているのである。この観点はアメリカでならニューヨークや西海岸の知識人に支持されるだろう。しかし、日本ではどうなのか。
映画から読み取れる同館の活動内容
図書館は、単に書物のコレクションを提供する場ではないことが繰り返し示されている。まず何よりもマンハッタンの中心部にあるという立地条件と、そのボザール様式という大理石造りのがっちりした建物がある。室内は広く天井は高い。家具調度品は豪華である。過度なきらびやかさは排除されているものの、知と美に対する最高の敬意が示され、それに伴う巨額の資金がつぎ込まれていることは一目瞭然である。古典古代、そしてルネサンスやバロックのヨーロッパの知的伝統をそのまま継承し、アメリカ資本主義によってニューヨークという都市に発展させようという意気込みがここに見られる。
それは19世紀末から20世紀初頭にかけての白人中産階級の文化構築の意思から始まったが、それにとどまってはいなかった。20世紀後半には、差別撤廃の社会的議論を反映させた多文化主義が採用される。何度か出てくる黒人文化研究図書館はNYPLの分館の一つであり、ここがもつアーカイブ的な資料は作家や研究者に黒人差別の実態を伝えるものとして重要な研究拠点になっている。19世紀にあった奴隷制と資本主義、共和主義の関係についてのレクチャーのシーンでは、マルクスがリンカーンに送ったという書簡が取り上げられていて、ここから共産主義者のマルクスが共和主義者のリンカーンを支持したのが、黒人の奴隷からの解放と労働者の解放を重ねて見ていたことが語られる。チャイナタウンに近い分館では、中国系移民に対する中国語でのサービスが行われている。また障害者サービスとしての点字や録音図書作成のシーンがある。手話通訳のボランティアを養成する講座のシーンがあり、「アメリカ独立宣言」の一節を、懇願するように読む場合と怒りを込めて読む場合とで手話通訳の動作が違っていると言って、実際にやってみせるシーンがおもしろかった。
ハイカルチャーの文字資料をあつかっているだけではない。ポピュラーカルチャーへの配慮が示される。写真コレクションは20世紀までのアメリカ人のコマーシャリズムや日常生活をそのまま写し取って蓄積したものである。先ほどの手話通訳のシーンは舞台芸術図書館のものだが、ここはメトロポリタン歌劇場に隣接している。舞台芸術から大衆芸能にいたる、台本・脚本や楽譜、映像資料、録音資料だけでなく、舞台装置のミニチュアセットや衣装デザイン、プログラム、ポスターなどの資料を集めて提供している。単なる印刷出版された資料だけでなくて、個々のパフォーマンスに対応する複製資料を集めている場である。
こうした図書館の活動を支える仕組みであるが、よく知られているようにここは非営利法人組織になっている。ニューヨーク市からの助成金と民間から寄付金が半分ずつという説明がされていた。もともと、アスター、レノックス、ティルデンの3財団の資金を統合して始まり、それにカーネギー財団からの寄付金が加わって、これらを基金としたものである。だが活動資金は自動的に入るようなものではなく、獲得するための説明がきわめて重要になる。
映画で何度も登場するのが、この図書館の経営会議である。運営資金をいかに調達するか、それから、どのような方面に向けてどのようなサービスを拡張していくかについて、侃々諤々の議論が行われている。重点をおいて描かれているのが、ネット弱者への対応である。そのなかでは、20世紀にカーネギーが無料公共図書館を寄付することによって印刷本の普及を図ったように、図書館がPCやネットへのアクセスをネット難民に無料で提供することによって、紙とデジタルとを問わず知へのアクセスを保証するという考え方をとっていることが強調される。しかしながら、図書館が実際に提供するコンテンツとして、紙かデジタルか、また提供するものが要求の多いものか価値あるものにするかというような、以前からある議論は継続して行われていることもわかる。
こうした図書館を支える人たちがどういう人なのかについては、あまり説明はなかった。今の経営会議への出席者は館長、渉外担当役員、主任司書などであり、彼らの間でも方針について差異が見られた。また、それぞれの専門図書館の責任者は司書というよりはキュレーターのような主題分野の専門家のようだ。分館や実際の資料コレクションの担当者になってはじめて図書館資料の利用について直接語る役回りになっている。これらについて知るためには、800円で売られている映画解説のパンフレットが役に立った。
映画が示唆する図書館の在り方
まず、この映画は最初から最後まで、誰かが話す、あるいは語るシーンで成り立っている。静謐な読書環境というステレオタイプの図書館観からすると意外なことに、声が横溢している。電話レファレンスの応対、作家の講演やインタビュー、カウンターでのやりとり、経営会議での議論等々。閲覧室で利用者が資料を繰ったり、読んだりしているシーンがないわけではないが、それはごく一部である。これは図書館がもつ膨大な資料がもたらす作用であると考えることもできる。図書館という場を描く以上、建物の内外の映像以外にメッセージを伝えようとすれば、声を中心にせざるを得ない。図書館は声が発生する場として描かれているのである。資料に含まれるメッセージはそれが読まれなくともそこにあるだけで何らかの作用をもたらし、作家はこの場で話しをすることで自分の言葉が他の資料に含まれる言葉と共鳴して自由な発想が可能になると主張しているかのようだ。
また、図書館の活動が来館者に何らかの資料やサービスを提供することに加えて、「場所の効果」と「資料がもたらす作用」自体に価値があるという考え方がとられている。 図書館がそこにあるだけで社会に対して何ものかを生み出している。本館の神殿のような建物がそういう効果をもつことは言うまでもない。そういう場所で調査研究することで西欧の学術の奥義に触れるような気にさせられることもまた否定できない。公共図書館がPeople's Universityと言われることがあるが、それは大学の知的権威性をそのまま反映させたこのような場所でないと実感はわかない。
「資料がもたらす作用」の典型は先程示した「声」である。映画で作家の声として示されているものは、図書館の資料を読む市民の内面の比喩的な表現である。つまり、利用者は資料を使うことでそこに含まれている「知」の声を聴くのである。さきほど、パフォーミングアーツの大量の一次資料があると書いたが、それらもまた演劇や朗読、ダンス、音楽ショー、バレエといった声と身体表現による言葉の表現である。それらの資料があることで、次の作品が生み出される。日本ではようやくそうした舞台芸術や音楽、映画などの資料をアーカイブとして残すことへの注目が始まっているが、それはデジタル化とセットで議論されている。しかし、ニューヨークではデジタル化以前に一回性のパフォーマンスについての資料を残すことも行われている。さきほど紹介した手話通訳の話しは、同じテクストが朗読者に媒介され、さらに通訳者によって表現されるという話しであるが、資料がもたらす作用とはテクストがこのようなパフォーマンスを通してつくる表現空間において現れるものである。作用が社会的なものに向けられれば、差別の問題や経済格差の問題に向けられることになる。
これを経済学の用語を使うと外部効果ということもできる。図書館が静的なイメージから動的なイメージへと転換するという描写は、経営会議のシーンで表現される。そこで論じられているのはまさしく外部効果といってよい。ニューヨーク市の財務当局と掛け合うため、そして民間の寄付者から資金獲得のためにどのような戦略を練るのか。向けられている視線は徹頭徹尾、直接図書館を利用する人ではなくて、その資金がどのように使われ、どのような効果をもつのかに関心を寄せる人たちである。外部効果をいかにうまく説明できるかで資金獲得の如何が決まるといってよいだろう。これは非営利法人に共通する課題であるが、日本の公的セクターでもガバナンスが問題になるなら、こうした説得力をもつ必要がある。つまり、利用者や担当部門の職員、議員といった直接の関係者だけでなく、「外部」にいかにその存在をアピールし外部効果をもつ機関であることを示せるかにかかっている。
日本では菅谷明子が『未来をつくる図書館』(岩波新書)でニューヨーク公共図書館を紹介したのは2003年であり、この本はそれからずっと読まれ続けてきた。日本人にはこのような図書館はある種の理想ではあるけれども、何となくアメリカ社会だからあるいはニューヨーク市だから可能な桃源郷のできごとという感じで読まれてきたと思う。少なくとも図書館関係者はそう感じてきた。だがこの映画が描き出すテーマは、新公共経営(NPM)が言われ、指定管理者制が導入された日本の図書館経営とも共通するものである。資金と人員が縮小されるときにサービスポリシーと資金獲得のための説明をどのように行うかが課題である。
とはいえ日本でNYPLのように経営権が独立して存在する図書館がどれだけあるのかを考えてみると絶望的になる。もしこれに近い経営判断をしている図書館があるとすれば、いくつかの非営利法人が運営する専門図書館とNPOや個人ベースで運営されているマイクロライブラリーくらいだろうか。あとは、資金の枠が設定されていて、NPMとはその範囲内で効率的な運営をすることと理解されているのではないだろうか。図書館が市民生活のなかにまで入って資料の提供以外のサービスまで積極的に行うことを主張することは難しい。日米の税制の違いや非営利法人の位置付けの違いが大きいのだろうが、今できることは、この映画を見たあとに再度この本を読み、どこからできるのかを考えてみることだろうか。
資料に含まれている「言葉」のもつ作用がきわめて間接的であるが文化の根幹的な部分を規定していることは、図書館という社会機関を考える際に決して無視できないものである。これは美術館や博物館など、同様に外部効果に頼らざるをえない機関とも共通している。日本では、この作用は社会において決して見えるものではなかったが、最近、後藤和子・勝浦正樹編『文化経済学』(有斐閣)が出ているように、美術館や博物館についての学術的議論が始まっている。では、図書館の根幹的な作用とは何であるのか、また外部効果として経済的な価値に置き換えられうるのか。こうしたことを改めて考えさせられた。
おまけ
原題はEx Libris--The New York Public Libraryで、日本のタイトルと逆になっているのはよくあることだ。このEx Librisは蔵書票と訳される。exは「外」を意味し、librisは蔵書のことで、英語にすれば"from the collection"ということである。蔵書家がこれを本に貼り付けたのは、本の貸し借りの慣習があったからである。本が重要な知的財産であると同時に関係者で共有する考え方があったことを示すものだ。タイトルは近代公共図書館思想にこうした共有思想があることを示しているのだろう。
上映館についてはここを参照
岩波ホールは7月5日までで、順次、全国ロードショーとなっている。
大阪ではテアトル梅田で6月21日から上映
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2019-06-15
2019-06-09
「日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策」
2019年6月8日(土)に帝京大学で開催の日本図書館情報学会春季研究集会での発表原稿です。
日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策
<抄録>
アメリカでは 1960 年代から 1970 年代にかけてスクールライブラリアン養成の制度 化が行われ、フランスでは 1980 年代末にドキュマンタリスト教員配置の法制度整備 が行われた。これは教育課程上の経験主義および知識構成主義に基づき、それが国の 教育改革と結びついて生じたものである。現在の日本の教育改革も、長期的にみれば学校図書館およびその専門職員の制度化をもたらす可能性をもつことを述べた。
日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策
<抄録>
アメリカでは 1960 年代から 1970 年代にかけてスクールライブラリアン養成の制度 化が行われ、フランスでは 1980 年代末にドキュマンタリスト教員配置の法制度整備 が行われた。これは教育課程上の経験主義および知識構成主義に基づき、それが国の 教育改革と結びついて生じたものである。現在の日本の教育改革も、長期的にみれば学校図書館およびその専門職員の制度化をもたらす可能性をもつことを述べた。
2019-06-03
「今後の学校図書館を導くための学習理論の考察」
昨年の日本図書館情報学会研究大会で発表したものを公表します。
根本彰「今後の学校図書館を導くための学習理論の考察」『2018 年度日本図書館情報学会研究大会発表論文集』琉球大学, 2018 年11 月3 日, p.45-48.
根本彰「今後の学校図書館を導くための学習理論の考察」『2018 年度日本図書館情報学会研究大会発表論文集』琉球大学, 2018 年11 月3 日, p.45-48.
抄録
ジョン・デューイの経験主義哲学に基づく新教育が20世紀末には、認知心理学の影響を受けて構成主義的教育学に展開したこと、それが政策的には、折からの新自由主義経済への対応としてOECD/DeSeCoのコンピテンス概念を通じて21世紀の学習理論に発展したことを跡づける。さらに、これらが西欧思想上のロゴス(言語=論理)概念をもとにしていることを述べ、それが言語資料の操作概念を通じて学校図書館の言語力と探究力の二つの学習への対応戦略を導くものになったことについて述べる。