2020-12-21

「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)中間まとめ」についての意見

現在、著作権法において図書館関係の権利制限規定の見直しの議論が文化審議会著作権分科会で進められている。すでに、法制度小委員会の議論の中間まとめが公表されていて、これに対してパブリックコメントが求められている。 

文化審議会著作権分科会法制度小委員会「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)に関する中間まとめ」に関する意見募集の実施について

こうしたものに個人の立場から意見を出してもどれだけ取り上げられるのか疑問はありながらも、以前よりも開かれた場で議論を進めようとしていること自体は望ましいものと思われるので、意見を伝えることにした。図書館関係者の間では今回の議論は唐突に来たもののようにも受け止められているが、背景には安倍ー管政権が進めようとしているデジタル庁の動きがあり、これに連動していることは明らかだ。そしてそのときに図書館がもつコンテンツに着目しているわけである。そのことについては中間まとめを参照していただきたい。


————————{回答内容}——————————————————————

1)総論 (第1章 問題の所在および検討経緯を含む)

 知的財産推進計画2020にある「研究目的の権利制限規定の創設」についてきちんと言及されていないように思われます。現行の31条第1項は「調査研究の用に供するため」とありますが、この範囲を超えた権利制限規定をつくろうとしているのかどうかがよく分かりません。どうもそうではなさそうですが、そうならばその旨言及していただきたいです。


(2)第2章第1節 入手困難資料へのアクセスの容易化(法第31条第3項関係)

① 対応の方向性

 私は現在国立国会図書館に設けられた納本制度審議会委員を務めています。現在、納本制度の一環でオンライン資料の納入範囲を議論するなかで、「民間リポジトリ」を納入対象からはずすことが検討されています。民間リポジトリが運用されることにより、そこに含まれるオンライン資料は「一般に入手することが困難な図書館資料」ではなくなります。これ自体は著作権の制限と直接関係ないのですが、今後民間リポジトリ等が普及することにより、「入手困難な資料の容易化」という目的の実効性があやうくなるのではないかということを危惧します。つまり、現在、出版物は電子テクストが先につくられそこから印刷されたり電子書籍化されたりするわけですが、今後そうしたものはすべて民間リポジトリに置かれて、国会図書館から送信される資料は古いものに限られることになってしまいます。もちろん古いものの入手が容易になること自体にも意味はありますが、国民(とくに研究者)が期待していることとずれるのではないでしょうか。そのあたりの議論がされてこういう提案がなされているのかどうか疑問に思いました。「デジタル化」の看板が先行し、中身が伴っていないように思われます。


(4)第3章:まとめ(関連する諸課題の取扱いを含む)

 学校図書館を31条の「図書館等」に追加することはぜひ進めるべきだと考えます。これは、現在の国際的な教育改革の動向、とくに2021年実施の学習指導要領で「探究」関係の教育課程が増えたこと、文字・活字文化振興法や子ども読書活動推進法の趣旨等から言って当然のことです。

 しかしながら、現在の学校教育法施行規則や学校図書館法の条文では学校図書館は学校の「設備」扱いになっています。ということは法的には学校図書館への専門職員配置等がされにくいわけで、司書教諭は名目だけであり、学校司書の専門性は重視されていません。そのために「図書館等」に含めるために必要な著作権法の研修等が可能なのかなどの検討をすべきだと思います。

 そもそも、学校図書館や職員の位置づけについて、文科省の総合教育政策局や初等中等教育局を含めた場での基本的な合意をとらないと進められないものではないかと思われます。著作権法が対象とする著作物は教材ないし教育資源として大きな可能性をもっていて、21世紀の残りの時期に教育課程および教育行政において大きな位置づけを占めるものです。(以上のことは拙著『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)および1月刊行予定の『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)で詳説しています。)

 デジタル庁が開かれることを機会に、文化庁から文科省の他の部門に対して、著作権行政の観点から、図書館における著作物の権利制限条項が教育政策の要になることをもっと強く主張すべきではないかと思います。

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2020-12-19

『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の表紙について

編集者から本書のカバーとして、何か提案はありませんかというお誘いがありました。前に『情報リテラシーとしての図書館』を出したときは、その数年前にヨーロッパに行ったときに撮った図書館の写真から1枚を選んで表紙の写真にしました。ときどきあの写真はどこの図書館ですかと聞かれるときがあるのですが、北欧のどこかの公共図書館のはずだが分からなくなっています。行った記録と写真をもう一度きちんと整理したいと思っているのですがそのままになっています。

今回図書館の写真はもういいだろうということで編集者側と一致しました。修道院図書館の写真など使いたいものも多く、パリの国立図書館リシュリュー館閲覧室も候補に挙げてはいましたが、最終的には却下しました。最終的に選んだのは、下記の青線に囲まれたコミックのような挿絵です。まだ公開されてはいませんが、これが何を意味するのかは本文中に書いてあるので下記に引用します。オトレとはPaul Otlet(1858-1944)のことで、ブリュッセルで国際書誌協会を立ち上げて後の国際ドキュメンテーション運動の創始者となった人です。日本語版のWikipediaに詳しい伝記情報が掲載されています。この図は彼が晩年に書いた『ドキュメンテーション概論』という本に出てくるもので、要するに書物にある知が書誌やドキュメンテーションの媒介作用によって利用可能になり、人間の知として展開されて再編成される様を表現しています。途中の分類表や目録カードのようなものが書物を経由して学術的な知とつながるところがおもしろいということで、これを採用することにしました。

「言葉を知に変える」という考え方はきわめて多様なものを含んでいて、この本では多様性全体を扱っていますが、とくに図書館情報学につながる部分としては書誌や目録、分類、索引などが重要で、オトレらの考え方は20世紀初頭のベルエポック期の理想主義を基にそれを展開したものです。本書第8講でこれについて述べています。


====以下『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』からの引用=======

オトレが書誌からドキュメンテーションへの構想をわかりやすく図示した「世界、知識、学術、書物」をみておきます(図23)。彼が遺した著書『ドキュメンテーション概論ー書物についての書物、理論と実践』(Traité de documentation: le livre sur le livre, théorie et pratique, 1934)に収められているもので、彼の思想をよく示しています。一番下の段の「分類 La Classification」はUDCの分類表であって、ここに知識が秩序化されて示されており、通常はここからアプローチします。下から 2段目「体系知 L’encyclopédie」は知の個々の単位がカードの形態をとって分類の秩序に従って配 列されている状態を示しています。ここにマイクロフィルムや地図や論文が連携すれば、知へのアクセスは容易になります。下から3段目「書誌 La Bibliographie」はその個々のカードである書誌を示しています。これが手がかりに なって知にアクセスします。次の下から4段 目「書物 Les Livres」の段は、書物の形をと って学術の知識内容が文字列あるいは写真で 取り出されている状態を示します。下から5 段目「学術 La Science」(上から3段目)は知識が取り出されて思考の枠組みと対応づけら れている様を表します。下から6段目(上か ら2段目)「知識 Les Intelligences」は受けた人がそれぞれ事物について思考している状態 です。下から7段目(一番上)「事物の世界 Choses」はこうして得られた世界、宇宙についての知ないし真理です。下の方は書誌的プロセスを示し、ドキュメンテーションは書誌によって得られたものが知識として再構成される過程までを含んだ構想であることが分かります。(本文 p.189-190)


図23 「世界、知識、学術、書物」 (Otlet, Traité de documentationより)




2020-12-14

新著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の予告

『パブリッシャーズ・レビュー』という東京大学出版会・白水社・みすず書房が順番で編集していたPR紙が最終号だそうだ。今回最終号という報道を見て、初めてこれが東京大学出版会が5月・11月、白水社が1月・4月・7月・10月、みすず書房が3月・6月・9月・12月を担当して発行してきたということを知った。紙での出版にこだわってきた人文系の出版社もプロモーション手段としてのDMというのはもう使わないということだろう。

その12月15日発行の最終90号に私が書いた本の出版予告が掲載されている。発行日は1月中旬の予定である。ちょうど1ヶ月前になったところで広報が始まっている。アマゾンをみたらやはり予告が出されていた。

根本彰著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』みすず書房, 2021年1月中旬刊行予定

そこには「日本ではアーカイブが必須の社会基盤とみなされていないのではないか。西洋社会と比較しつつ、これからの図書館が向かうべき道を照らす。」という文言が書かれていた。『パブリッシャーズ・レビュー』の方はもっと長い紹介文であるが趣旨は同じである。著者としては、これは執筆の趣旨と少しずれているのではないかと編集の方をやりとりをしているところだ。確かに広い意味では図書館論であるが、残念ながら「図書館が向かうべき道を照らす」ものと主張すると図書館関係者の期待には沿えそうもない。ほとんどの部分が西洋思想史をベースにした文化論・教育論であって、それに照らして日本の近代化を論じているからだ。要するにこの本は図書館も含めた文化の知識伝達機能を「アーカイブ」と名付けて、その発展が西洋思想の展開に基づいていることを主張しているのである。私が前から主張しているように、日本の教育がかたちだけ西洋的な学校制度を取り入れたが中身と方法が西洋のものとかなり異なったものとなった理由を解明し、それが近代日本の図書館の発展にとってマイナスに働いた事情を明らかにしたものである。

目次

第1講 方法的前提   

はじめに
用語の整理 
アーカイブとアーカイブズ
〈文書〉と言語論的転回 
文化翻訳論 
日本文化の三層性 
言語の透明性と構築性

第2講 西洋思想の言語論的系譜   

ロゴスとは何か 
プラトンとイソクラテスのパイデイア 
ロゴスとしてのアリストテレスの著作群
12世紀ルネサンス
ルネサンス 
フマニタス(人文主義)と近代科学
近代後期におけるロゴス 
パイデイアのその後

第3講 書き言葉と書物のテクノロジー   

書くとはどういう行為か 
書物と文書・記録との違い 
書物のテクノロジー 
古代・中世の書物 
グーテンベルクの活版印刷術

第4講 図書館と人文主義的伝統   

図書館はどのように始まったか 
アレクサンドリア図書館とは何か 
中世から書物の共和国へ 
読者の誕生
修道院と読書 
コレクションとミュージアム
学術知の成立

第5講 記憶と記録の操作術   

ユーグの読書論 
記憶術とは何か 
レファレンス書の完成 
書誌と分類 
書物の共和国の図書館

第6講 知の公共性と協同性   

百科全書と啓蒙主義 
教養とは何か 
研究型大学と大学図書館 
都市に埋め込まれた知 
公共図書館の制度化 
図書館専門職の誕生 
知の大衆化と図書館サービス

第7講 カリキュラムと学び   

陶冶とディセルタシオン 
バカロレアの哲学問題 
パイデイアの世紀的展開 
媒介される知と行動に移される知 
学校改革のための図書館的知 
国際バカロレアにおける学校図書館

第8講 書誌コントロールとレファレンスの思想   

世界書誌の夢 
書誌とドキュメンテーション 
FRBRモデル
分類法と主題 
知的コンテンツのメタデータ 
書誌コントロールという課題 
レファレンスとレファレンスサービス

第9講 日本のアーカイブ思想   

日本人の言葉とアーカイブ 
江戸のリテラシー
会読の重要性 
書物のアーカイブ戦略 
近代世界システムにおける明治維新 
殖産興業と学術知 
博覧会、博物館、図書館 
近代の学校教育制度 
江戸から明治へのアーカイブ戦略 
教養主義と「買って」読むこと 
近代日本の知の在り方

第10講 ネット社会のアーカイブ戦略   

世紀のハイパーメディア構想 
テキストとマルチメディア 
カノン(正典)とは何か 
育たなかったアーカイブ装置
国立国会図書館と憲政資料室 
アーカイブの活かし方

エピローグ   

知のネットワークとアーカイブ 
カノンとフーガ 
独学と在野の知

あとがき  

索引 


本書執筆の経緯について書いておきたい。2020年春にCOVID-19が世界を危機に陥れた。私は3月に大学を退職予定で最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していた。これについてはブログでも案内し、多数の参加希望者があった。これが開催できなくなったことは学究生活を終える私個人にとってはもちろんのこと、ここで予定していた重要な問題提起ができなくなったことについての学術的な損失という意味でも悔しく思っている。今ならオンライン開催も可能だろうが、それはまたの機会ということになった。

4月から同じところで非常勤講師として学部の「図書館基礎」という授業を継続する予定にしていたのだが、これがオンラインでやってほしいということである。それも教材をデポジットする方法でやることが推奨されていた。そこで一計を案じたのが、この際、自分が考えている図書館論を書いて学生に読んでもらってコメントをもらい、それに対して筆者としての応答をするという方法で授業を進めることであった。そうして書いたのがこの本である。第1講から始まって第10講まであるのは授業の10回分であることを示している。1週間に1講分の原稿を書くのはかなりハードだったが、これまで考えてきたりしてきたことなので、こういう機会に一気に書き下ろすというのは楽しい作業でもあった。また、こういうときにしかできないことだということも感じた。こういうときというのは、退職後で自分の時間をフルに使えることや、パンデミックの危機的状況のなかで緊張感をもって書くこと、また、読者が想定されて(待って?)いるということである。3ヶ月でほぼ書き終えて、その後、手を入れて原稿とした。という背景のなかで書いたものなので、かなりいろんな思いが詰め込まれていて読みにくいと感じることもあるかもしれない。しかしながら、この危機下に何者かを残すことができたという安堵感は残っている。


追記

本書に帯する書評についてブログで補記しています。

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(1) 2021-04-28

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(2) 2021-09-04

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(3) 2021-09-04


2020-11-10

『公共図書館が消滅する日』への疑問

昨日届いた『図書館界』72巻4号を開き、新出さんによる、薬師院仁志・薬師院はるみ著『公共図書館が消滅する日』(牧野出版, 2020)の書評を読んでみて、喉のつかえがとれた感じがしました。というのは、この本が何を主張しているのかがよく理解できず、もやもやしていたのに対して、すっきりと問題点を整理してくれているからです。この書評をきっかけとして、この本の問題点について論及しようと思います。

戦後の日本の公共図書館界では、国の統制を避けて個々の図書館(員)が住民と連帯しつつ自発的な活動をすることで発展できるという論理を組み立ててきました。ここに関わる団体としては、日本図書館協会(日図協)、全国公共図書館協議会(全公図)、図書館問題研究会(図問研)、日本図書館研究会(日図研)などがあります。日図協は言わずと知れた『中小レポート』と『市民の図書館』というこの考え方を推進した大元の団体です。関わる団体も一枚岩ではないのですが、書評に、全公図が日図協の公共図書館部会から分かれて行政的なプレッシャーグループとして活動することを目的としてつくられたとあるように、相互に関わりをもちます。図問研は日図協が敷いたレールの上で活動する現場図書館員の議論を集約する場であり、日図研は主として関西の図書館員と研究者が関わって日図協の活動を牽引したり後ろから押したりする役割を果たしてきました。

この本の著者らは、日図協を中心とする団体の活動および関係者の言説に対して批判を展開するのですが、私はこうした批判によってどのような対抗的な議論が行われているのかが不明と感じていました。新さんの書評では、本書が大胆に戦後図書館史を分析しようとしていることは評価しつつも、細部に問題が多いことの代表的な例を示し、そもそも土台の部分も怪しいという議論をしています。このあたりはまったく同感であり、こうした分析がされることでなるほど著者たちはこういうことを言いたかったのかと気づかされることも少なくありませんでした。

書評では、「「主流の物語」を批判するために、資料から自説を補強できる部分のみを引用して、別の「物語」を構築しているように受け取れる」(p.196)と述べられています。私には、その構築された「物語」が「本書が批判対象とした既存の図書館の発展史観と似かよっている」というところはよく理解できていませんでした。タイトルは「公共図書館が消滅する日」とありますから、国家的なプランとつながったり、外部からの提案を活かすチャンスは何度かあったのだが、図書館関係者はそれをことごとく自ら潰し、自壊の道を歩んできたと言いたいのかと思います。とすれば、これはとても「発展史観」とはいえないのではないか。というのは、潰してきたプランや提案の主体は、GHQの担当者だったり、図書館協会の理事だったり、図書議員連盟だったり、文部省だったり、日本書籍出版協会や文芸家協会だったりというように、時代が違えば、主張の背景も主体もばらばらだったし、図書館を推進しようという思惑もそれぞれ異なっていたからです。

本書の帯には、「真の目的と存在意義が、いま、失われようとしている」と大きく書かれています。本書に言う、公共図書館の「真の目的」とは何なのか最後までよく分からなかったというのが正直なところです。「はじめに」では、欧米の図書館が公共に開かれたものになっているのに対して、日本の図書館が商業主義的な原理に依拠し、指定管理を導入したり、非正規職員を大量に導入したりして、図書館運営や貸出の多さを競うようなサービス方針になっているが、これでは公共図書館とは言えないと主張しています。けれども、著書全体を通して個別の批判に終始し、このような「目的と存在意義」を実現するための制度とは何なのか、それをどのように実現するのかについては議論されていません。著者らは図書館法の法改正が必要だという議論をしたかったのかもしれません。書評では、著者の一人薬師院はるみさんの論文を引いてそのような読み取り方をしているように見えます。けれども、それは必ずしも前面に出てはいません。

こういう政策的議論には、戦略的な視点をもって歴史的分析を行い、現状分析をする必要があるのですが、本書には戦略的視点も、現状分析もありません。あるのは西欧的な公共性をベースにした個別の歴史的分析と批判だけです。また分析をする際の一貫した歴史観は感じられません。書評でも言われているように、これだけの視野で大量の現代図書館史の文献を集めて分析しようという作業は貴重だとは思います。また、これまで日本の公共図書館論に使える戦略的視点がどれだけ用意されているかというとそれも疑問です。だから、著者らにはここで展開されている論理の枠組みを明確にして、批判のための批判に終わらないポジティブな議論を今後展開されることを期待したいと思います。

私は直感的に著者らの批判は、個別にはともかく政策論としては有効でないと感じます。というのは、貸出を熱心に行う図書館も、指定管理の図書館も、居心地の良さを市民にアピールする図書館も、紆余曲折に見えて、日本の図書館が自立するためには必要な過程だったと思われるからです。それだけ日本人には、著者らがいう「図書館」とは何なのかが分かっていなかったとも言えるのですが、この間に、市民は日本的図書館を見いだしてきたのではないでしょうか。その証拠には、コロナ禍で図書館活動がストップしたときに、図書館サービスの復活を望む声が早い時点でさまざまな方面から上がったことが挙げられますし、今、文化庁の審議会で著作権法を改正して図書館が著作物の一部のデジタルデータを公衆送信できるような議論を行おうとしていることにも示されます。これらは、『市民の図書館』から50年目にして、ようやく目に見える動きとして現れたものです。文化的な事象はそれだけ時間を掛かけて熟成するということではないでしょうか。

追記(11月11日):その後、Facebook上で、評者の新さんとも議論して改めて思ったことですが、第一著者薬師院仁志氏が欧米社会および社会学の視点から社会批評をしてきた人であり、橋下行政への批判などもしてきたことを考慮すると、この本は、日本社会が欧米水準から見て不足しているものがあるという視点から、冷戦体制時には保革政治の荒波に揉まれ、その後は新自由主義を背景にした消費社会に変貌していくなかで、図書館関係者が住民要求というワードに脚をとられ、市民的公共性に照準を合わせることができていないことに対する批判であると受け取るべきなのでしょう。





2020-10-23

子どもの本離れは解消されたのか — 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む

飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書, 2020年7月刊)に目を通した。読んだとは言えないのは、この本の第1章「子どもの読書環境はいかに形成されてきたか」が目当てで、あとの章はマンガ雑誌が売れている理由や『おしりたんてい』をはじめとするヒット本の分析に充てられているので走り読みしたからだ。それでも1章と「おわりに」は読む価値があると感じた。これまで、出版流通やベストセラーについて書かれた本で図書館が言及されるとすれば、それは図書館での貸出しが作家、出版社、書店などの関係者から問題視されている文脈でのことが多かった。大量の複本貸出が売り上げを損ねているというたぐいのものである。それがこの本はおそらく初めて、子どもの本というジャンルの話しではあるが、図書館(というより公費)が重要な市場を形成する要因となっていることについて論じたものだ。

子どもたちの読書量は増えているのか

本書の帯には「直近20年間で14歳以下人口は約200万人減ったが、児童書は市場規模を堅持、本を読まない子どもは減少し、小学生の読書冊数は倍増!「子どもの本離れ」はいかにして終わったのか?」とある。本離れが終わったというのが初耳なのでこれはどういうことかと思いながら読み始めた。

p11にあるグラフから14歳以下人口が1998年に1920万人だったのが2019年に1520万人であることが読み取れるので、実際の減少はその倍の400万人である。(これは間違い?)同じグラフから、児童書販売額が1998年の1400億円から2001年に1800億円と急に増え、その後は市場規模を維持して2019年に1750億円ということが分かる。p13のグラフ(これと次のグラフは全国SLAの学校読書調査からとったもの)が示す子どもたちの不読者率(5月1か月で1冊も本を読まなかった子どもの割合)は小学生が1998年の15.6%から2019年の6.8%と下がり、中学生に至っては1998年の47.9%から2019年の12.5%へと大幅に下がっている。また、p12のグラフからは、1998年の小学生の5月1か月の書籍の読書冊数が6.3冊だったのが2019年には11.3冊に上がり、中学生は1.8冊から4.7冊へといずれも大幅に増えている。子どもたちの読書について数値上はこの20年間に大幅な増加傾向を示している。

ということで、子どもの数が大幅に減少しているのに、児童書販売額は倍以上になり子どもの読書冊数も延びているというたいへんめでたい状況が示されている。ただし統計値による議論の根拠が怪しいということはありうる。たとえば販売額にコミックが含まれかなりの割合になるはずだが、学校での読書ではコミックは推奨されていないはずだから、これらのマクロなデータでどこまでのことが言えるのか。しかしここで論じたいのは、それでも子どもの読書量はこの20年間で増えているとして、これを手放しで喜んでいいのだろうかということである。

この本の第2章以降では、子どもたちがどのような本を好んで読んでいるのかについて、詳細な分析が行われている。そこで描かれているのは、子どもの本の造り手が子どもたちのニーズをいかに把握しながら商品づくりをしているのかということだ。『コロコロコミック』と『少年ジャンプ』との棲み分けの話しや大ベストセラー『おしりたんてい』がなぜ売れたのか、『かいけつゾロリ』の著者が本を読まない子にどのように読んでもらうような仕掛けをしているのか、子どもの目線から「悪い大人をやっつける」宗田理『ぼくら』シリーズが累計2000万部を売った理由、といったように展開されている。そこで取り上げられているのはマンガ雑誌、絵本、コミック、男子向け・女子向けのジュブナイル本など多様であるが、なるほど、子どもたちの日常生活のストレス解消や身近なところで満たされない夢を追うことなど、明確に存在しているニーズに対応しようと子どもたちが読みたい本を供給していることが分かる。

読書推進の行政的働きかけ

他方、第1章の後半で強調されているのは、学校図書館行政の仕掛けである。学校図書館は戦後教育改革で一時的に注目されたがその後はあまり光が当たらない存在だった。しかし、世紀の変わり目に政治的働きかけから子ども読書活動推進法(2001)ができて、それ以来、国の資金が自治体行政に入ったことにより公立図書館や学校図書館での児童書購入が増え、また、ブックスタート、朝の読書や読書のアニマシオンが行われ、子ども読書へのインセンティブが強まった。とくに朝の読書は学校の生活時間に読書の時間が組み込まれている訳だから、その効果はきわめて高い。職員配置がなかった学校図書館にも複数校配置の非正規職員にせよ人的サービスが始まった。これらの仕掛けが相まって子どもたちは本を読むようになった。要するに、学校図書館が整備され、さらに学校教育の枠組みのなかで朝読のような読書推進の時間が設けられたことが、子どもたちの読書意欲を高めていることは確かだ。子どもの本が売れた理由は公的な財政支援の効果が大きいということを示している。

ただ、先に挙げたような本の購入に公費が充てられているのだとすれば、それでいいのだろうかという疑問が沸いてくる。二つの論点がある。ひとつは、児童書市場と大人書籍市場とに分けて考えたときに児童書市場だけが政策的に支えられている状況が望ましいのかということがある。他方では図書館に当てられた公費が出版市場に負の影響を与えているという主張もあるように、大人書籍の市場関係者から異論はないのだろうかという疑問である。もう一つはそれと関わるが、こうした本は短期的な読書量を増やすのに貢献しているのだろうが、本当に読書振興につながっているのかという疑問である。こうした本を読んだ子どもたちが成長し大人になっても本を読み続け、出版市場を支える人になるのだろうか。

子どもの本が売れているといっても、売れているのは子どものニーズに寄り添う娯楽的な本が中心であり、公費投入によって結果的に推進されることになるのはどちらかというと消費的な読書である。それでも、こうした子どもの読書行為が将来の出版市場の買い手を育成することにつながっているなら正当化されるかもしれないが、読書習慣の育成につながるのかどうかはかなり怪しいのではないだろうか。そもそも子ども読書推進の動きは、子どもたちがゲームやスマホに浸かっているよりも、どんな本であれ読書する行為そのものを無条件に肯定する考え方が背後にあるように思える。

ところが、著者は、2010年代になって一般家庭での児童書購入の割合が増えていると言う。それは教育改革によって学校図書館が調べ学習や総合学習の場に転換しつつあり、それにともなって学校図書館の資料購入が読み物中心から調べるための資料にシフトしつつあり、その分、家庭での購入に廻ったからだという。(p.128-130)学校図書館の本の貸出しの統計データはつくられていないし、ここで購入資料が調べ学習や総合学習用にシフトしているというのも特定の事例に基づく論なので、どうも根拠がはっきりせず、著者の推測によるとしか言えない。

だが、学習指導要領で探究学習が明示されつつあり、学校図書館が学校図書館法で規定する本来のかたちであれば、読書振興だけでなくて教科の学習を支援することが必要であり、そちらの方向に進むことは自然である。本書で著者は、どちらかというと子どもの本離れが解消されつつあることと、本の造り手が子どもの視点を重視しているという点を強調している。だが、その裏でこのような移行が進行していることをも示してくれている。また、最初に書いたように、この本が出版市場における公費による支援や図書館市場、学校市場の存在を明確に示し、児童書出版ではそれがかなり大きいことを示唆したことは重要な指摘だと思う。

高校以降の読書

小中学校の「読書量」が増えているというのは確認できたが、高校、大学、そして大人にそれがつながっていない。先ほどの2019年学校読書調査で5月の1ヶ月で一冊も本を読まなかった不読者の率は高校生だと55.3%である。過半数は不読者ということになる。平均読書冊数も1.4冊であり、これらの数値は1998年とあまり変わっていない。また、全国大学生協連が実施した2019年の「学生生活実態調査」で、大学生の48.1%が1ヶ月の読書時間が0分で、平均読書時間は30分という数字が公表されている。高校が受験その他で忙しく読書の余裕がないとはよく聞く話しだが、大学生になっても変化はない。小中生の読書とのギャップはあまりにも大きい。さらに2019年(平成30年)の文化庁「国語に関する世論調査」は16歳以上の男女に対して読書についても尋ねているが、回答者の47.3%は1ヶ月に1冊も読まないと回答している。これらの統計は、高校以降の人たちの半数は読書をしないことを示している。

実は、読書をしない回答者が半数という読書に関する大学生の状況は1998年の中学生の状況に近い。一番いいのは、大学受験と読書を結びつけるようなプログラムがもっと豊富にあるべきだということである。高校で始まる「総合的探究の時間」はそれを可能にするものになるのだろうか。しかしながら、やはり大学がもっと「知の在り方」をきちんと教育する場であることが求められているのではないか。教養科目や一般教育科目が軽視され、専門科目の下請け的な位置づけになっている今の大学の現状では、読書と知、そして専門教育が結びつけられていない。大学教員に、大学が総合的な知を育成する場という意識があまりないのが最大の問題であると思う。

大学図書館に対して資料費や職員配置のための財政補助を行い、カリキュラムに教養書や学術書を読むための枠を設けることを積極的に行ったり、ビブリオバトルや作家や著作者の講演会他のイベントを行うなどの積極策をとれば効果があることは確かだろう。実は、アメリカの大学は1960年代に大学進学率が50%を超えて大衆化が進行したときに、政府の資金により大学図書館を整備し、授業で大量の文献を読ませる方法を積極的に導入した。研究図書館と別に学部生図書館(Undergraduate Library)を設置したところも多く、大学の授業はともかく書物や論文を読むことを中心にすることが改めて確認された。

日本でも国が子ども読書振興にそれほどまでにこだわるなら、それを高校や大学まで継続するためのビジョンをもつべきではないだろうか。大学は国がカリキュラムや大学生に読ませるべき書籍の内容に口を出すのは拒否するだろうが、読書振興を名目に補助金を出すことは歓迎だろう。私は電子書籍の導入やネット環境の整備にもましてこういうことの方が大学生の学習意欲向上と環境整備に効果があると考える。

『教育改革のための学校図書館』を書いた私としては、本を読む機会が与えられればいいというだけの考え方には与したくない。図書館、学校図書館は出版市場という民間セクターに公的資金が導入されている場であり、その意味で知の公共性に関わっている。






2020-10-04

国際バカロレアと学校図書館との関係

大学をやめてから半年が経過して、ブログの更新も停止していましたが、そろそろ再開しようと考えています。本日は、日本図書館情報学会研究大会があり、そこで「国際バカロレアにおける図書館の位置づけ」という報告をしたので、これについて、この場で公開したいと思います。

抄録

日本でも,50校ほどで導入されている国際バカロレアディプロマプログラム(IBDP)の歴史と現状,学校図書館がどのように位置づけられているのかについて,IB本部の公式文書および外国での研究成果を基に整理した。1970年代から始まったプログラムは探究学習を中心とし,学校図書館は必置であるが,専門職員配置については曖昧であった。2000年代に進められたA. Tilkeの研究及び実践は専門職員配置について一定の成果をもたらしつつある。


本文ファイル

パワーポイントファイル


いくつか質問があったのでお答えしました。補足しながらまとめておきます。

Q アメリカの一般的学校のカリキュラムと学校図書館との関係と、IBのカリキュラムと学校図書館との関係は同じようなものと考えてよいのか。

A アメリカの学校といっても公立か私立か、州の違いなど個別のケースによってかなり違うが、20世紀後半以降、カリキュラムは探究型に転換しつつある。IBはアメリカのみならず欧米の学校カリキュラムで採用されている構成主義をもとにした探究的な学習法の動向を先取りしている。探究とは学習資源(これは、人、教材、学校図書館資料、データベース、ネット上の情報資源を問わず)を素材として使って自らの知を構築することである。この学習資源全体の管理と仲介機能を果たすのがlibrary/ianの役割とすれば、探究学習をするのにlibrary/ianは必須であるという理解は共通している。IBはそのような動向を先取りして制度化しつつあると言える。


Q 国際バカロレアのカリキュラムの推進に図書館が関わるという考え方はどこから来ているのか。それが日本で定着する必然性はあるのか。

A もちろんカリキュラムの推進は教員の役割であり、司書や司書教諭はそれを支援するというのは他の学校図書館とも同様である。発表でも述べたように、IBの本部は学校図書館員を専門職とみなして要求しているので、日本も含めて総じて図書館員の専門性、独立性は認められており、そのために教員と対等の立場で支援することがしやすいのだろう。定着するかどうかは今後の展開次第であり、そのためにこうした研究を行っている。


Q 国際バカロレアが日本の教育改革にどのような影響をもたらすと考えるか。そのときに学校図書館への影響は。

A IBのカリキュラムは2020年代の学習指導要領の方向性とぴったり合うものであり、その意味ではIBが国内の一般的な学校の実践に何らかの波及効果をもたらす可能性はある。その場合に、学校図書館にもよい影響を与えるかもしれない。とは言え、文科省が率先して導入をはかろうとしているが、これはカリキュラム改革というよりも国際教育という文脈で考えたほうが理解しやすい。なぜなら、IBを担当しているのは大臣官房の国際教育のセクションであり、カリキュラムは初等中等教育局の管轄なので別だからだ。だから、公立学校でIBを導入したところも県の教育委員会肝いりの特別の位置付けにある実験校にな(ってい)る可能性は高く、IB校が教育改革に対してプラスの影響を与える存在なのかはまだよくわかっていない。けれども、数十年単位での長期的展望を言えば、今後の学習方法のモデルを提示することは間違いないと思われる。







2020-03-31

言語と知識,国語教育 ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(2)

政権党党首であり総理大臣である人が,国会答弁や記者会見の質疑において質問の意図を「ずら」して答えることで切り抜けようとしていることが話題になった。答えにならない答えをしていても,それについて責任が問われない状況はなぜ生じているのだろうか。これは行政官庁において官僚が公文書の作成をためらい,作られたものを恣意的に管理することと関わっている。話し言葉はずらされ,書き言葉はなかったことにされる。

こうした状況は今に始まったことではないかもしれないが,少なくとも20世紀後半には政治家も官僚ももう少し言葉に対して責任をもっていたと思う。図書館情報学は言語表現された媒体を扱う領域であるから,言葉がこのように軽く扱われることについては大きな危機感を覚える。考えてみれば,日本で公文書管理がずさんであることや公文書館が貧弱であることと,図書館はそれなりにつくられていても司書を専門職としてこなかったこととは密接な関係があるだろう。文書は一回性の事象の証拠となるドキュメントであり,図書は普遍的な知を記録したドキュメントである。どちらも記録して集め組織化してあとで再利用するものである。日本社会は,ドキュメントの再利用に抵抗があるようだ。おそらくは,同質集団における関係が前提となった身体的なコミュニケーションがベースにあるからだろう。

ここ数年,ロゴスという言葉に惹かれてきた。これは,古代ギリシア語に端を発する概念で,言語,理性,法などの意味を有するとされる。この言葉が西欧の哲学のなかでどのような位置づけになるのかは,岩田靖夫・坂口ふみ・柏原啓一・野家啓一『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(有斐閣 1993)に概説されている。重要なのは西欧の思想が今に至るまで一貫して,このロゴス(理性主義)を基軸として形成されてきたということである。この本でも,中世にはキリスト教神学がギリシア哲学のロゴスを否定的に扱ったことが書かれているし,近代以降ロゴスがもたらした科学技術が人間社会に与えた負の遺産が語られている。だが,ロゴスの発動が西欧社会の発展をもたらしたことについていささかもゆらいではいない。

ロゴスが言葉であり理性であるというのは,人は言葉を発し,書き記すことで自らの思想を生み出しそれを他者に伝え,蓄積し,必要に応じて取り出して参照するという,そうした知的営為が結果として社会を発展させる原動力になったということである。そこでは,図書館や文書館のようなアーカイブの機関が重要な役割を果たす。それはアーカイブこそが権力とそれにまつわる知の源泉を示すものだからだ。諸元に帰ることで権力と知のありようについて再考する機会を重視する再帰的な作用が組み込まれている。西欧の近代図書館は,中世以来の教会や修道院の図書館とともに,王侯貴族が宮廷に知識人の交流の場としてつくらせたものであった。そこでは知の言葉を凝縮した書物を置くことで,徹底してロゴスの機関であることを誇った。図書館情報学の出発点もそこにある。

明治政府の近代化路線は西欧社会の模倣で始まった。そこではこうした知的営為は限定されたかたちでしか導入されなかった。なぜならば,知は輸入して翻訳すれば手に入ったからである。帝国大学はそのための機関であり,西欧的な知を導入して日本的なコンテクストに置き換えて再配布することを使命としていた。日本の近代化はロゴスの自律的発動を嫌い,入れるべき知を限定し,国定教科書にまとめ直し,学校で習得させた。暗記中心の教育になるのはそのためである。

私は図書館情報学の研究をするうちに,以上のような日本社会,とくに教育システムがもつ歴史的な特性と限界に気づいた。日本人は江戸期までは中国というモデルがあり,近代以降は欧米というモデルがあり,いずれもその知を自らのコンテクストに合わせて咀嚼しながら導入した。それは現在に至るまで教育システムを支配してきた。これは自ら問題意識を構築し解決する人の出現を妨げてきた。モデルに倣って近代化を進めるうちはよかったが、近代化を達成した後は逆にそれが桎梏となっている。

最後に,国語教育の話をしておきたい。学校教育が自ら考える市民の育成を目的とせず,国に従属する臣民教育であったのは事実である。学校図書館は本来,学校における各教科のための知的基盤を構成するための施設のはずだったが,読書推進の役割しかもてなかったのは,学習者が知を自ら構築するという考え方が欠如していたからである。今,新しい指導要領において「探究」の言葉が散見されるわけだが,教育関係者がどこまで本気でカリキュラムを変更しようとしているのかは疑問である。

読書というと誰もがよいものであるということで思考停止してしまう。ともかく小学生までに読書の習慣を身に付けましょうといい,かなりの国家予算が子ども読書推進に充てられているが,実は,今の中等教育および高等教育を進めるだけでは,本を読み考える市民は生まれない。むしろ本を読ませるべきは中高生,および大学生なのだ。論理国語はこのようなコンテクストにおいてとらえるべきだろう。

私は国語という教科は数学と並んで方法の教科であると理解している。方法の教科というのは言葉や記号を操作することで思考を自ら進めるための手段となるものである。いろんな機会にお話ししているのだが,日本の数学はきわめて高度で,四則演算から始まり,解析学(微分・積分)や線形代数の基礎までをやる。これは理系教育ばかりか社会科学も含めた方法的な基盤を提供している。自然科学系のノーベル賞が連続して出ているのはその有効性を示している。

では,人文的な分野の方法はなにかといえばそれは言語に基づくものである。言語を理解し,発し,やりとりする力である。数学があれほど一貫した体系で進められているのに,国語はそうではない。漢字の読み書きができるようになるとあとは文学的鑑賞を中心とするものに移行していた。本当はクリティカル・シンキングを含めた文章の読み書きの方法を学び大学での学びにつなげていかなければならないのに,そうではなかったのだ。

今後は,これらの問題について,歴史,思想,国際比較の観点から研究を続けていくつもりである。



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