2021-09-04

『アーカイブの思想』の書評(3)

根本彰『アーカイブの思想——言葉を知に変える仕組み』(みすず書房, 2021)に対する書評(2)の続きです。

書評者:中野目徹氏『日本史学集録』(筑波大学日本史談話会) 42号, 2021年7月, p.49-52.  (アクセスはこちら

【謝辞】この雑誌は筑波大学関係者を中心とした研究会の雑誌であるが、オープンジャーナルとなっていないのでなかなかアクセスしにくい。そこで評者の許諾を得てこのブログで読めるようにした。掲載を許可していただいた評者に御礼申し上げる。

はじめに

中野目氏は筑波大学で近代日本思想史を担当している歴史学者である。この書評の最初に出てくるように、2020年3月に私が慶應義塾大学を退職するにあたって最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していて、そのときに招待してお話しを伺おうとした方である。そのイベントはコロナ禍で中止になった。どういうイベントが予定されていたかに関心があればここを見ていただきたい。拙著自体がそのときの最終講義で予定していた内容を大きく展開したものであったが、氏の書評もまたそのイベントでお話しになる予定であったところから出発しているということだ。このような形でお返しいただいたことに感謝申し上げたい。

実は氏と20年前からの因縁があったことは、この書評の後半に、拙著『文献世界の構造——書誌コントロール論序説』(勁草書房, 1999)で述べたことが北海道文書館職員(当時)青山英幸氏の著書『記録から記録史料へ——アーカイバル・コントロール論序説』(岩田書院, 2002)で方法として用いられ、青山氏の著書の書評を中野目氏が書いていたとあることから分かる。書誌コントロールとアーカイバル・コントロールとの関係は図書館の方法と文書館の方法の関係に相当する。私自身は青山氏から同書をいただいていたが、あまりそのことを考察しようとしていなかった。改めて考えてみると20年越しで『アーカイブの思想』を書いたことの遠因に両者の関係の重要性に気づかされたことがあったのかもしれない。今なら、もう少し知識組織化の方法の議論に踏み込むところなのだろうが、今回は少し触れただけであり今後の課題の一つとなる。

以上のことは措いても、中野目氏は思想史学者であるが筑波大学に赴任する前に国立公文書館にいらして『近代史料学の射程』の著書もあるように、公文書や公文書館について詳しいし、現在でも筑波大学文書館の責任者を務めている。つまり、私が図書館の専門家であるとすればアーカイブズの専門家でもある。だから本書が「アーカイブ」を名乗りながら実は「アーカイブズ」についての記述が弱いことはすぐに見抜いただろう。ただ、そのことはおくびにも出さず、本書をintellectual historyの視点から読んでくれたという言う。これはたいへんありがたい。

私にとって思想や歴史という領域は今でこそ身近となったが、かつては遠い領域であった。1970年代前半に文系の大学に入ったものとして、錚々たる人たちが侃々諤々の議論をしている思想や歴史の壁はたいへん高く厚く思え、まったく違ったアプローチをとることを選択した。そういう自分が半世紀してそうした領域に近づくことは冒険でもあった。本書で何度か言及したように、西洋の人文知の成り立ちを意識する見方を日本の人文社会科学の領域にぶつけてみることこそが、下手の横好きとか大風呂敷とか言われようとも、本書の独自性であり、それを正面から読み取ろうとしてくれたということがうれしいものであった。

アーカイブとドキュメントの違い

書評では本書の構成に沿って全体を紹介した上で、最後に3点の著者に「教示願いたい点」を指摘している。これに答えるのが著者の務めであるだろう。以下、襟を正して批評への応答を試みたい。

まず、本書の冒頭で「アーカイブ」と「ドキュメント」を定義しその違いと関係について述べている。評者はこれが「アーカイブズ(文書館)と図書館(さらにアーカイブズ学と図書館学)の関係にほかならないが、両者の位置関係が不明瞭であり、本書の主題と対象の不明瞭さにつながっている」と感じられたとしている。とりわけ、日本の近代化を論じた第9講について、「今後より一層検討を加えていく必要がある」と述べている。第9講が近代思想史家の眼からするとずさんな議論にも見えるだろうとは予測できることである。この分野について、日本史学なり近代思想史学なりの蓄積がすでに大量にあり、それからつまみ食い的に取り出して論じているようにも見えるだろうからである。だから、問われるべきは、そのつまみ食い的取り上げ方の正当性を主張するための方法的根拠である。そして評者は、著者がそれをアーカイブとドキュメントの違いを基に展開していると読んだのであろう。

本書の立場を言い換えると、「アーカイブ」とは起源へと回帰するベクトルであり、「ドキュメント」とは逆に未来へ向けて拡散するベクトルであるということになる。アーカイブと歴史、ドキュメントと知を対応させているのはそのためである。歴史学は現在を構成するものの最初がどうであったのかを問い、それを明らかにするのがアーカイブズ(オリジナルな文書や記録類)であるとする。他方、それ以外の人文社会系の学問は本書の立場から言えば起源後の現象の展開についての知である。知を獲得する方法はそれぞれの学問毎にあるが、それで構成された知はいずれも仮説にすぎない。そして、知は自らの支持者を増やすために拡散の方向で展開する。書物、論文、ネットいずれもがコピーであり拡散のためのツールである。実は歴史学の問いも現在を説明するために行うものであり、起源を問いながらなおかつその解釈を行うという意味で他の人文社会諸科学と変わりはない。つまり、歴史学もそれ以外の人文社会科学もいずれもアーカイブ、ドキュメント両方のベクトルをもちながら、自らを形成してきたと考えるべきなのだろう。

極論すれば、アーカイブはオリジナル、ドキュメントはコピーを志向するが、その関係は相対的にしか決まらないということになる。文書館と図書館の関係もここから導かれる。一点しかない文書、その写本、版本、影印本、文書を集めて編纂して活字化した資料集、この文書を解説した書物があるとして、文書館はどれを集めてコレクションにするのか、図書館はどうか。どこまでがアーカイブズでどこからがドキュメントか。それは一律には決まらないが、しかしながら論理は明快である。

あらゆる学問において先行研究の確認が行われる。たとえば理系の研究で先行研究と言えば、当該領域の最新の研究成果である。だが、研究史を遡ってその研究を手掛けた最初の論文にはすでに研究上の価値はなくなっている。とはいえ、STAP細胞事件のようにひとたびその研究がフェイクの疑いがかけられたとき、たちまち当初の論文は研究史的な意味でのアーカイブとなり検証の対象になる。このことを逆に言えば、理系の研究論文は最初の論文が査読を通り公表された段階でアーカイブの段階からドキュメントの段階になり拡散の道をたどるということである。そして通常、アーカイブを問題にすることはない。アーカイブの真正性がドキュメント拡散のプロセスに埋もれているからである。ただし、この場合でもアーカイブは常に検証の対象として存在している。

このように、アーカイブはいずれドキュメントに変わる。そのタイミングが自然科学と人文社会科学では異なっているということである。また、ドキュメントの分析自体を行う文学や哲学などの領域はドキュメントをアーカイブととらえているとも言える。たとえばゲーテでもルソーでも福澤諭吉でもいいが、文学や思想研究者がいちいち著者のオリジナルの原稿を読みにアーカイブズに行くことはないと言ってよい。原稿のファクシミリ版のようなようなものを読む場合、刊本になった全集本を読む場合、さらにはその翻訳の文庫本を読む場合でも、それはアーカイブを読んでいるわけである。それは書誌学的な校訂を受けて原典と同一である、あるいは原典にもっとも近いものとして読んでいる。翻訳ですら、原典を忠実に訳したものとして扱われる。これらもドキュメントであると同時にそういう手続きを経てアーカイブが埋め込まれていると考えられる。

中野目氏の疑問に戻ると、だから両者の関係が曖昧に見えるのは仕方がない。さらに、両者の原理的な違いと相互関係は文書館や図書館の制度的違いとは対応しにくいところもでてくる。たとえば、内閣文庫(現国立公文書館)のようにドキュメントをもつアーカイブズがあったり、憲政資料室のようなアーカイブズを国立国会図書館が部門としてもったりすることがあるわけである。両者の関係は、戦後改革でGHQ/SCAPが図書館を重視したことによって、一時的に図書館が制度化されたことにより、関係者が国立国会図書館を文書館として用いたことにある。だが、同館のモデルになったアメリカ議会図書館(LC)は近くに国立公文書館(NA)があるのに、アーカイブズのセクションをもち大量の資料を集めて公開しているから、別に日本の特殊事情とは言えないだろう。公文書館法、公文書管理法以降の日本では、公文書館を発展させている状態で図書館や博物館などにあったアーカイブズを改めて文書館に移管することも進行している。ようやくアーカイブズが公文書館で扱われるような事態が生まれつつある。

東洋の書物と文庫

次に、本書が欧米の人文学的なコンテクストのなかで図書館のことを語り、中国や日本の書物や文庫などの知の系譜との関係の整理が十分ではないとの点である。本書では第8講まで西洋の知の系譜について述べて、第9講で日本の対応するものがどうなのかという議論をしている。江戸期の書物とその蓄積および流通と知識人の交流について少し述べ、また幕末には会読のような西洋で行われていた知の交流と深化させる方法があったことについても述べている。しかしながら、それが明治政府が本格的に稼働するにつれて、国力を強化することが目標になり、知の領域も蓄積しながら自由な交流を前提にするのではなくて、知を輸入して翻訳して配布するようなものが中心であったと述べている。内部に蓄積しつつ新しい知を創造するのではなく、外部からの翻訳学問が中心になっていくことや、国民自体を国力と位置付ける観点から、学校教育における知および倫理の在り方を国家が統制していったことについて批判的な議論を行った。

評者はもとより日本思想史の研究者として、それでは江戸期までの知の蓄積との関係がよく見えないという批判をお持ちなのだと思う。本書でも国学的伝統が天皇制国家の知的倫理的水準を決定づけたことについては言及しているが、氏が指摘している、明治のジャーナリスト徳富蘇峰の成簣堂文庫に和漢洋の資料の蓄積があることで分かるように、明治の知識人が決して漢学や国学の伝統だけではなく、中国、仏教、洋学のさまざまな知を吸収しながら議論していったことは確かだろう。明治初期の啓蒙主義者のなかで天皇制の推進者になった人が少なくないことは確かであるが、このあたりの事情を十分に把握して論じることはできていない。また、中国や日本の文庫的伝統や類書、考証、類聚、編纂物といった「書物のアーカイブ戦略」(本書p223以降)についての考察や日本の教養主義と修養主義の関係、そして出版と知の流通の考察(p246以降)はあるが、全体としてきちんと検討が進めらることはできていない。それは西洋の知の系譜を基準にして日本のことを議論したことによる限界であることは自覚している。

ただ、一点言い訳のように付け加えておけば、西洋の知的伝統の在り方とアーカイブの思想が近しいものであり、それが図書館や文書館といった制度面に現れていることを強調したかったことは確かである。これは、図書館情報学という分野が制度としての図書館が十分に展開しないと成り立たないという弱点をもっていることと関わっている。近代日本の書物の問題は私自身の課題であると同時にこの時代のさまざまな領域の研究者が進めてくれているので今後ともいっしょに考えていきたいことである。

デジタルアーカイブについて

多くの記録物がボーンデジタルで発生し、すぐにネットで使用可能になる状況についても十分に議論していない。また、評者があえて「デジタルアーカイブズ」と表記された文書・記録史料類のデジタル化についても本書では述べていない。私自身は入っていないがデジタルアーカイブ学会の活動もあり、近しいけれども遠巻きに眺めているという感じである。というのは、これは今のデジタル庁創設の動きとも密接にからむもので、国のICT対策が出遅れているという危機感を先取りしてデジタルコンテンツの創出を目指すが、やはりそうした時流に乗った動きとも見えるからである。時流に乗ることもときには重要でむしろ図書館の領域は乗るのに失敗してきた歴史とも言えないことはない。ただ、どうも気質的にそういうものから離れたがるところがある。

もう少しこれまで述べてきたことの延長上で議論すれば、デジタルアーカイブはアーカイブといいながらドキュメントの拡散をデジタルネットワークの上で目指す手法である。確かに一点しかないアーカイブズがどこにいても画面上で見ることができるというメリットがあることは何にもまして否定できない。これは図書館の領域でも同様で、国立国会図書館のデジタルコレクションがネット上で公開されたことで人文社会系の研究者が今まで知らなかった、あるいは入手できなかった古い資料に容易にアクセスできるようになったことを歓迎する声をいろんなところで耳にする。だから、日本の貧弱なアーカイブ環境を改善する重要な手法であることは間違いない。これに、ジャパンサーチの横断検索の機能によって個別の機関がつくるデジタルコンテンツへのアクセスがさらに容易になることが拍車を掛けている。

だが、物事には両面があるもので、この手法がアーカイブと名付けられ、これによってアーカイブ問題が解決すると考える人が出てくるとしたらそれは大きな問題だろう。これはアーカイブズ関係者には自明のことだが、デジタルアーカイブの素はあくまでもすでにある紙ないしはパッケージ系のメディアであり、過去存在していたが消失したり行方不明になっものを掘り出してアーカイブ化することではないし、また、これによって、公文書の移管手続きが進んだり、ボーンデジタルの公文書類が保存されるようになることでもない。つまり制度として問題になっている公文書の保存公開や公文書館への移管問題とは直接関係ないのだが、そうした問題が存在することの目くらましの効果もあることに不安を覚えているということである。

言い換えれば、私が考えるアーカイブズの世界においては、アーカイブズの存在を認識しそれを意識的に残すことから始まり、あとは組織的に保存し、必要に応じて公文書館に移して組織化して利用可能にするところまでを含むのだが、デジタルアーカイブはその最後の部分にはきわめて有効だが他の部分には影響がないということである。全体としてバランスのよい展開を考える必要があると思う。

おわりに

思いがけず真摯な書評をいただいたので、余計なことを含めて書きすぎてしまったかもしれない。本書のなかで大元の図書館情報学に当たる部分は全体のごく一部で、中心は歴史学、哲学・思想史、教育史・教育哲学、文学史・文学理論などに拡がっている。自分にとって他分野の方からのレスポンスをいただくことも経験した。また、そうした交流によって新しい分野が開けていることも分かってきた。21世紀も20年がすぎて本格的な新世紀の相貌が現れつつある昨今であるが、知の状況を俯瞰的に見る方法論を探るのが楽しいという実感はある。

『アーカイブの思想』の書評(2)

 前回の書評紹介に続けて、その後に出た書評を紹介し、若干の応答をしておきたい。

書評者:福島幸宏氏『図書館界』(日本図書館研究会刊)73巻2号, 2021年7月 p.146-147. 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/toshokankai/73/2/73_146/_article/-char/ja/ (エンバーゴによって現在は会員以外は半分しか読めない。発行1年後にエンバーゴが解けたら全部読める)

自主的な研究会で直接コメントしていただいたものと基本的に同じ内容なのでそのときの回答文書を転載しておく。なお、福島氏は現在、慶應大学の文学部図書館・情報学専攻に所属している。それも奇しくも私が出た後の机を使っておられる。部屋ではなく机である。というのは、この専攻の教員が大部屋にいることは知る人ぞ知ることであり、それはここがジャパンライブラリスクールだった頃からの伝統である...

応答 1

 東アジアと日本との関係について、西洋中心主義ではない見方をすることの重要性は言うまでもないのですが、私のとりあえずの役割は日本の学問が20世紀までに依って立っていた基盤をもう一度点検して、そこにアーカイブなり図書館なりを位置づけをすることにありました。それはお話ししたように、一部の分野を除くと大学での学問が西洋の学問を基にして形成されてきたからです。そこで、古代ギリシア以来の人文学の系譜を記述し、その系譜のなかで使える概念装置を選択し、それを基にして日本の近代化を点検するという方法をとりました。ウォーラーステインは必ずしもヨーロッパ中心主義ではなくて歴史的に大きな地域ブロック間のダイナミックな関係を描き出そうとしていましたが、資本主義の発展を前提としている限り、ヨーロッパ近代の拡張という視点は避けられなかったわけです。それを本書で扱っている文化領域に当てはめて議論できないという批判はありえると思います。しかしながら、本書の目的がアーカイブに対する政策的な視点を強調するところにあったので、国民国家の成立とそこでの教育政策なり文化政策の(西洋的発展を基準にした)歪みということにならざるをえませんでした。

 これが東洋的なあるいは中国的な統治思想を前提としたアーカイブ構築を考えると、確かに官が効率的に情報操作をするような在り方がもう一つのモデルとなり、日本の政府が目指しているのも実はそうしたもののような気もします。とすると、西洋対東洋の統治思想の対立という視点から再度見直すことも可能かもしれません。福澤諭吉を思想的淵源とする慶應義塾での授業であり、そうした問題設定は次の課題として西洋的なものを前提として語ったというところです。

2. 日本—中国—西洋という3層構造という図式はかなりナイーブであまり学問的な議論になじまないものだと思います。これはイントロダクションで学生に対して扱う領域がきわめて広汎であることを告知するためのレトリックということにさせてください。

応答2

国民国家から帝国主義の時代のナショナルな制度と文化を中心に語ったのはそのとおりです。これもまた戦後政治の枠組みを意識すればそこからスタートせざるを得ないからです。バブル崩壊=冷戦終了の後の状況を考えると、「次」の考察が十分でないことも自覚はしています。ただ、それについては迷いがあるのですね。

西洋的な知の伝達モデルが結局のところ産業社会を生み出し、経済成長が個人の幸福と結びつくという神話になったわけですが、その先に何があるのかということです。この神話は中国を典型として専制主義+資本主義の組み合わせを生み出しています。これは日本の近代化過程を参考にしているわけですが、現在の日本は西洋的な市民主義的デモクラシーとそうした統制されたデモクラシーの中間にあり、今後、どちらを目指すのかについて明確なビジョンが得られていません。

他方、GAFAのようなグローバルなICT資本はデジタル・プラットフォームを駆使して国家を超えた新しいネット生活を提案しつつあります。図書館情報学はGAFAの存在の産みの親的な位置付けでもあったはずだということを本書中に少し触れました。人と情報を結びつけるという基本的な枠組を考えればこの問題にもっとコミットしてよいと思います。たとえば、出版と図書館との関係は結局のところ、書かれたものを管理するシステムの経営管理に帰着するわけで、私は前から出版流通の経済学が必要と言ってきたのですが、ネットワーク市場と公共経営をどのように組み合わせてモデル化するかということに帰着します。

迷いの二つ目は、本書では知と言葉の関係を議論してきたのですが、マルチメディアをどう考えるかです。19世紀後半以降の大衆社会の発現においては、読書やジャーナリズムよりも映像や音声、写真等のマルチメディアが無意識に働きかけていることが無視できなくなっています。これはメディア論でさんざん言われてきたことです。今の若い人は本を読むよりも効率的にニュースサイトやSNSの書き込みを読み、YouTube等の映像を行動の参考にしています。書き言葉の問題は19世紀で終了して、知はマルチメディアの作用によって媒介されるものとみるべきなのかという問題です。

三つ目は、日本的あるいはアジア的なロゴスとパイデイアの伝統をどのように考えていくかということです。これが地域的な知の在り方とも密接にからむのでしょう。文章中には、アルファベットとカナ・かな・漢字の関係とか言霊とか身体知などについて触れてはいますが十分な展開ができませんでした。一定の見通しはあるのですが、いずれ取り組みたいテーマです。







2021-09-03

『国際バカロレア教育と学校図書館—探究学習を支援する』の刊行(10月30日発売)

 
カバーイラスト|タカハシタケシ/TAKESHI TAKAHASHI
カバーデザイン|松本泉/IZUMI MATSUMOTO

アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館——探究学習を支援する』(根本彰監訳、中田彩・松田ユリ子訳)学文社, 2021.

原著:Anthony Tilke, The International Baccalaureate Diploma Program and School Library: Inquiry-Based Education, Libraries Unlimited, 2011.

(Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4762031062

が刊行されました。(店頭に並んだのは10月30日からです)

本書の著者アンソニー・ティルク氏は現在はオランダのハーグ・アメリカンスクールにいますが、かつて横浜インターナショナルスクールに8年いたことがある日本通の学校図書館員です。この著書は国際バカロレアと学校図書館の関係について概説した唯一の図書であり、国際バカロレアのカリキュラム展開において学校図書館および学校図書館員の存在が不可欠であることを理論的、実務的に記述しています。

11月23日開催の公開シンポジウム「国際バカレアと学校図書館」の詳細については→こちら

シンポジウム参加者には1割引(送料・消費税込2200円)での特別販売を行います。(10月13日追加)

次は本書掲載の「監訳者による序文」と目次です。


2021-06-03

「アーカイブ」と「アーカイブズ」は違う

『図書館雑誌』2021年5月号の「窓」欄に表記の文章を掲載してもらった。

著者としてはこれ以上言うことはないのだが、図書館現場でこれがどのように受け止められているのかについての感想や意見を聴いてみたいと思う。





2021-05-01

オンライン資料の納本制度の改定について(2)

 オンライン資料の納本制度についての私論

前項に続いて、このオンライン資料やデジタル資料の利用についていささかの私見を述べておく。関連の論考として、根本彰「知識資源のナショナルな組織化」(根本彰・齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020, p134-162)があるので併せて参照されたい。なお、オンライン資料以外の、従来の納本制度の対象資料と対応するデジタル資料の納本制度の必要性については最後に述べておきたい。

NDLのデジタル化戦略

デジタル資料を梃子にしてNDLの現代化を図るというのは、かつて2007年から2012年にNDL館長を務めた長尾真氏が取り組んだものである。長尾氏の館長時代にNDLは資料のデジタル化、納本資料に電子出版物やオンライン資料を含めること、そしてインターネット資料の自動収集制度を始めた。これらは従来の図書館が対象とする資料の範囲をデジタル資料の方向に大幅に拡張することになっただけでない。国立国会図書館法改正だけでなく著作権法の改正も行っているように、官庁、自治体、出版社、著作者を巻き込んだかなり大きな制度改革である。

まずインターネット資料の自動収集であるWARPは国および地方自治体の機関のみ対象だが、ネット上で発信した政府情報や自治体情報を定期的にアーカイブ化を行って蓄積するものであり、こうした情報の保存・公開という意味できわめて重要である。そしてオンライン資料という新しい概念を用いた納本制度というのは、たぶん苦心のアイディアなのだと思われるが、ネット上のデジタル資料で従来の図書館資料のイメージにもっとも近い図書と逐次刊行物形式のものを納本対象にしたということだ。これが重要なのは、民間の出版社にとって紙からデジタルへの移行における試金石になるということだ。

というのは、従来紙の図書は刊行したものの1部をNDLに納本するのは取次が代行しており、あまり気にかけずに済んでいた。納本制度が始まったばかりの頃には戦前の検閲制度の記憶も濃厚にありさまざまな抵抗があったものだが、今のような仕組みになって安定的に運用されていた。が、今回、有償オンライン資料の納入が義務化されることで、電子書籍や電子雑誌の納本について改めて一からすべてを議論しなければならないだろう。その際に、改めて納本制度とは何なのか、国はなぜ民間が出版した資料の納入を義務づけているのか、さらには納入した資料はNDLでどのように利用されるのか、次に述べる長尾氏の構想とどのような関係になるのかなどについて問われるはずである。

長尾構想とは何か

長尾氏は、館長就任後間もない2008年に私案として「電子出版物流通センター」構想を発表した。それは次の図のようなもので、ここには少々修正したかたちで2015年に再度提示されたものを掲げている。出版社から納本された出版物をNDLがデジタルのまま受け取り「デジタルアーカイブ」に置かれる。カッコ付きの納本制度としてあるのはまだ法制度が整っていないからである。紙のものはデジタル化されて「デジタルアーカイブ」に納められる。これは館内の利用者が利用できるし、公共図書館等を通じて館外の利用者にも利用できるようになる。また、デジタルアーカイブから新たにつくられる「電子出版物流通センター」にデータが「無料貸し出し」されて、ここが「販売」「有償貸し出し」「権利者へのアクセス料金の配分」の業務を行うことになる。要するに、NDLの外側にできる電子出版物流通の拠点が納本制度によって集められた電子出版物をもとにビジネスを行う拠点になるということである。

長尾真「知識情報の活用と著作権」『デジタル時代の知識創造』角川学芸出版 2015 p30 より


立法府に所属する一見すると地味な図書館がこのようなデジタルコンテンツの収集・提供を行うという発想が型破りでありインパクトはあった。だがこれは館長の私的な構想であって、実際にこの図のように事が進展したわけではない。

まず、オンライン資料の納本制度についてはようやく今回の制度改革でカバーされるようになった。この図の左側の国立国会図書館の部分については構想後13年目にして実現されようとしていると言える。また、(1)で述べたように著作権法改正の議論が進んでいて、デジタル資料の国民への無料での直接送信や公共図書館等を経由しての提供はこの図が示すもの以上に進展することになる。他方、「電子出版物流通センター(仮称)」はつくられなかったし、今後もつくられる様子はない。

長尾構想は、日本で電子書籍や電子雑誌の発行が遅れているからNDLが率先して納本制度を梃子にして国民への安価な提供システムをつくろうという趣旨で提案されたものである。だが、電子書籍市場は今でもコミック中心であり、あとは紙で刊行されたものが少し遅れて電子書籍化されて市場に登場しているが、それは紙の出版物の一部である。電子書籍市場において、納本制度はこれまでは無償でDRMなしの出版物のみが対象であったから目立ったものとはなっていない。また、紙のものはNDLに直接納本されるのではなくて、取次が代行しているから、官主導で流通を促進するという議論が出版関係者にピンとこなかっただろう。

雑誌は学術雑誌は確実に電子雑誌化しているが、それ以外の商業的分野では紙ベースの雑誌市場は縮小されつつある。休刊になった雑誌記事の一部は新聞社や出版社のサイトからのオンライン記事として発信されたり、新書版の書籍として出版されたりしている。図書も雑誌もまだ成熟した電子出版物市場はつくられていない。遅れた理由ははっきりはしないが、コミック以外の電子書籍の市場形成が十分ではないことを意味するのだろう。そこには、図書館での利用を前提とした法人市場がうまくつくれていないことも含まれる

民間オンライン資料の納本制度の成否

出版関係者には電子書籍や電子雑誌の納本制度について、すでに一定のイメージができあがっているように見える。それは電子出版物の納本はやっかいだということである。というのは、紙のものなら1部納本してそれがNDL内で利用されてもあまり販売に影響がない。むしろ確実に保存してくれるというメリットがある。しかし、電子的なものは納本されればそれが容易に外部に発信可能になる。デジタル出版物は所有権、著作権にもましてそれをどのように使うかのコントロール権が重要なのだが、DRMをはずすということはそれを他者に与えることに等しいから問題になる。

しかしながら、オンライン資料の館外送信についてはまず著作権上の問題がある。外部送信のためには著作権が切れているものが対象でなおかつ絶版になったものしかできない。ここにTPP協定により著作権法が改正され、保護期間はかつて著作者が亡くなってから50年だったものが2018年末から70年に変更になった。これにより、NDL所蔵のデジタル資料の著作権は1968年までに亡くなった著作者のものについてはフリーになったが、1969年から1989年までに死去した著作者の著作については50年差の2019年以降にフリーになるのではなくて、70年後の2039年以降に1969年から順に1年ごとに繰り下がってフリーになっていくことになる。つまり、著作権法で保護される期間が20年間延長されたことの影響は大きい。このことを出版社やベンダーは十分に理解していないのではないか。(*下線部は最初の稿で間違っていたので修正した。2021/05/06)

次に電子書籍への移行により、「絶版」という概念がなくなりつつあることも指摘しなければならない。かつてなら印刷された部数が売れて在庫がなくなった段階で増刷しなければ絶版とされたが、それでもどれが絶版なのかは曖昧だった。ところが電子書籍はデータがあればいつでも販売可能だから絶版という状態はないことになる。だから電子書籍化され販売されている限り、それがNDLから無料でインターネット上で利用可能になることはありえないことになる。

以上のことから、著作権保護期間延長があり、電子書籍化によって絶版がない状況がつくられるとオンライン資料として納本されたものも外部送信しにくくなり、出版社や著作者にとっては不都合な状況を避けることができることになる。紙の本のように取次一括で納本されるのでないから、出版社や著作者の心配ないし誤解をていねいに解かなければなかなか納本は進まないだろう。このあたりについて、報告書は、金銭的補償にこだわらず、政策的補償に相当するインセンティブが必要であるとか、著作の真正性の証明、データバックアップ機能、統合的検索サービスから本文情報へのナビゲートがインセンティブとして期待されるというように、納本することが著者や出版社にとって著作物の文化的な保全をもたらすものであることを述べている。このあたりも含めてオンライン資料の納本の重要性をどの程度説得的に示せるかにかかっている。

オンライン資料以外のネット上デジタル資料

最初に述べたように、納本制度は伝統的な9種類の資料を対象としていた。再度示すと、

 一 図書
 二 小冊子
 三 逐次刊行物
 四 楽譜
 五 地図
 六 映画フィルム
 七 前各号に掲げるもののほか、印刷その他の方法により複製した文書又は図画
 八 蓄音機用レコード
 九 電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により文字、映像、音又はプログラムを記録した物

である。今回の改定で1の図書と3の逐次刊行物に相当するオンライン資料が納本の対象となることになったが、それ以外のものでデジタル化されてネット上にあるものは対象にならないのかという問題が残されている。2の小冊子と7の複製した文書又は図画というのは曖昧な概念で、ひとまず図書と逐次刊行物に含まれると考えてよいだろう。しかし、それ以外の楽譜と地図は別の資料であり、それらのデジタル版は多様な展開を示していると考えられる。また、6の映画フィルムと8の蓄音機用レコードのデジタル版は9に含まれることになる。総じて、9に該当しインターネット上でアクセス可能になっているものをどう扱うかという問題である。おそらく9の概念をつくったときに、それがネットワーク上に置かれているものについてどう扱うかという問題意識はあったものと思われるが、今回までの改定ではそれについては触れてこなかった。

この問題については、最初からこれをNDL一館でやることは難しいのではないかと考える。たとえば、6の映画フィルムについては、国立国会図書館法の附則で納入を免ずるとあってNDLは納入機関になっていない。実質的には東京国立近代美術館国立映画アーカイブ(旧名:フィルムセンター)が1970年に開設されて以来こちらが、映画資料の保存機関であった。(http://archive.momat.go.jp/FC/filmbunka/index.html)つまり図書や逐次刊行物は図書館が扱うのに適するが、それ以外のマルチメディア資料についてはNDLが納本図書館という原則そのものに無理があったというのは早い時期から知られていたのである。

ちょうど昨年の8月からジャパンサーチが本格稼働していて、これは国や大学等の博物館、資料館、公文書館、資料館、図書館の資料(現物、デジタルアーカイブ)の横断的サーチを行うものである。ここには国立映画アーカイブも含まれている。オンライン資料の納本についても、「リポジトリ」で扱えるものはそちらに委ねるという方針が採用されている。これを延長すれば、マルチメディア資料およびそのデジタルアーカイブについてはそれぞれの専門機関が扱い、NDLは印刷物を原形とするものを対象とするというような切り分けによる分担の制度が必要になっているように思われる。

最後に、残された問題として、ネット上のコンテンツの納本制度をどう考えるかがある。映画の法的納本制度が免除されていたわけだが、マルチメディアの各種資料について改めて納本制度をつくることが可能なのか、あるいはそれは必要なのかということである。複数機関での分担アーカイブを前提とするとすでにそれは難しくなっているように思われる。
 

オンライン資料の納本制度の改定について(1)

 今年の3月25日に、国立国会図書館(NDL)の納本制度審議会が開催され、その場で「オンライン資料の制度収集を行うに当たって補償すべき費用の内容について」が承認された。この審議に参加した者として、これが何を意味するのかについて解説し、さらに今後の課題について述べておく。

答申のURL

納本制度審議会HP

これは、10年以上前の国立国会図書館長の諮問「平成 22 年 6 月 7 日付け納本制度審議会答申『オンライン資料の収集に関する制度の在り方について』におけるオンライン資料の制度的収集を行うに当たって補償すべき費用の内容について」(平成 23 年 9 月 20 日)に対する答申であり、中間答申「オンライン資料の制度的収集を行うに当たって補償すべき費用の内容について」(平成 24 年 3 月 6 日)を経て、最終的にまとまったものである。なぜ、そんなに時間がかかったのかだが、これはNDLの中長期的な経営戦略と関わっている。じっくり時間をかけて関係者と協議しながら実績をつくり実現させる必要があったということだと思われる。これを理解するには、よく使われる次の図を見るとよい。これは納本制度に関わる資料の配置を示したもので、全体としては図の上に矢印で示してある「有形」と「無形」の区別と右にある「公的機関発行」「民間発行」の区別が重要である。今回の制度変更は従来のオンライン資料の納本範囲を拡げ、そのための合意づくりをしたということにある。















背景

 NDLの納本制度は以前はパッケージ系の資料のみを対象とするものだった。それがこの図の「有形」とある左側の黄色の部分である。これも創立まもない時期から国立国会図書館法の24条から25条の2にある次の資料群(これが一番左の「伝統的な出版物」)

 一 図書
 二 小冊子
 三 逐次刊行物
 四 楽譜
 五 地図
 六 映画フィルム
 七 前各号に掲げるもののほか、印刷その他の方法により複製した文書又は図画
 八 蓄音機用レコード

に加えて、2000年の同法の改正で次の項目を追加している。

 九 電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により文字、映像、音又はプログラムを記録した物

つまり、その時点で電子的なパッケージ系資料を納本対象としたわけである。これは、CDやDVDの形式で文字、音声や映像、そしてプログラムを記録する電子資料が現れて出版物として認知されたことを示している。この当時すでにインターネットが使われていたが、当初は電子メールや電子データ、HTMLによる文字、画像、音声を組みあわせたウェブサイトのようなものが中心であり、まだ出版物に対応するものは少ないと見なされていた。それが、徐々に、学術論文や電子出版物の交換のためのリポジトリが置かれたりするようになり、インターネット上にある電子コンテンツを無視することができなくなった。

そのために、NDLでは「オンライン資料」という概念を新たにつくって、インターネット上にある出版物の一部を納本対象にしようとした。図では、右の「無形」の資料のうち、赤の点線で囲まれた長方形で示されている。納本制度は国および地方公共団体の出版物と民間(私人)の出版物を分けて収集している。これには歴史的経緯があるがここではその議論はしない。国と地方公共団体の無形の資料については、「インターネット資料収集制度」により定期的に自動収集するソフトウェアWARPが動いていて、これによって収集できている。これに対して、民間のものについても収集が必要ということで、「オンライン資料」について平成23年(2011年)館長諮問で、それに翌2012年に中間答申をしたものがこれまでの制度状況である。オンライン資料は、もともとの館法24条から24条の2にある伝統的出版物の「一 図書」「三 逐次刊行物」に当たると考えられる。

オンライン資料収集制度

インターネット等で出版(公開)される電子情報で、図書または逐次刊行物に相当するもの(電子書籍・電子雑誌等)が「オンライン資料」で、NDLでは、2013 年 7 月私人が出版したオンライン資料のうち、無償かつ DRM(技術的制限手段)の付されていないオンライン資料を収集することにした。これが図のオレンジ色の長方形のうちの「A 無償出版物(DRMのないもの)」の部分である。それ以外のオンライン資料については、収集や補償の在り方に検討を要することから、当分の間、国立国会図書館法の規定により、国立国会図書館への提供を免除することになった。だから法的には本来AからDまでのオンライン資料全体が納本の対象だが、検討期間を設けて一番問題がないAの部分の収集を行ってきたということができる。

今回の改正は、さらにB〜Dの部分を納本対象にするものである。いくつかの点について議論があった。

 収集対象について

現在でも収集対象となる無償DRMなしのオンライン資料は外形基準を設けて特定のコード(ISBN、ISSN、DOIのいずれか)が付与されたもの、又は特定のフォーマット(PDF、EPUB、DAISYのいずれか)で作成されたものとしている。これらはパッケージ系の出版物がもっている形式に近いものを選んでいることは明らかである。そして、今回の改正でもこの二つの基準はそのまま適用することになっている。

ここで若干議論になったのは、出版社や報道機関のオンラインニュースサイトやジャーナリズムの記事発信サイトである。新聞は今でも紙のものが出ているからニュースサイトはさし当たってはいいとしても、かつてなら週刊誌や月刊誌で報道されていた記事の多くは現在は新聞社や出版社のサイトから発信されている。たとえば朝日新聞社の月刊誌『論座』は2008年で休刊になり、2010年からWEBRONZA(2019年から「論座」)で発信が始まっている。当然、NDLには紙版のものは入っているがネット上のものは蔵書になっていない。ネット上の「論座」がオンライン資料かどうかだが、上記のコードもなければフォーマットとしてもHTMLであり、どちらにも該当せず今回の納本の対象にならないことが確認されている。

国立国会図書館法25条3にあるオンライン資料の定義は「電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により記録された文字、映像、音又はプログラムであつて、インターネットその他の送信手段により公衆に利用可能とされ、又は送信されるもののうち、図書又は逐次刊行物(機密扱いのもの及び書式、ひな形その他簡易なものを除く。)に相当するものとして館長が定めるものをいう。」とある。それに続いて納本の目的としては「文化財の蓄積及びその利用に資するため」とある。雑誌『論座』が「文化財」として蓄積され同館の蔵書として利用されていたのに対して、その後継の「WEBRONZA」、そして「論座」にある記事が「文化財」ではないと言い切れるのかということである。パッケージ系の逐次刊行物の形式を重視した基準をあてはめればオンライン資料ではないとしても、内容面や文化財の蓄積・利用という目的面から考えて、もっと議論が必要ではなかったかと思われる。

報告書では、オンライン資料全般について出版流通状況の変化等に応じて不断に見直すことが重要であるとされている。今、『論座』を例にとって述べたが、報道機関、言論機関は普段から紙メディアとオンラインメディアを組み合わせて発信している。そのなかで、どれが「文化財」として納本されるべきなのかを含めて、著作者、出版者も含めて議論を継続する必要があるのではないか。なお、市場において DRM が付された状態で流通しているオンライン資料についても、DRM が付されていない状態のファイルを収集するということになっているが、そのためには出版社ないしベンダーの協力なしに進めることは難しいから、今後さまざまな議論を積み化される機会は増えるのではないかと思われる。

収集除外について

もう一つ議論されたこととして、営利企業で構成される組織が運営するリポジトリを、国立国会図書館法その他の適用法規の定めるところにより収集対象から除くことができるものとした点である。ここでいうリポジトリとはオンライン資料をまとめて蓄積管理して外部に提供するところを指している。実は、従来から学術情報の世界では「機関リポジトリ」と呼ばれて大学や学会が雑誌論文を提供していた。それらをまとめて扱っていたJSTやNIIは国の機関であるが、これは納本対象にせずに例外的にそちらに委ねるという分担の政策を採用してきた。今回これに準じて、長期継続性、利用の担保、コンテンツの保全の観点からリポジトリとして認定できるかどうかをあらかじめ確認することが議論された。たとえば電子書籍の販売サイトなどもこのリポジトリに該当するとして納本を回避するようなことがないようにしっかりとした運用を行うということである。併せて、コンテンツの散逸防止やメタデータ連携についても覚書等により担保する必要があるとされた。これらはすでにNDLが全部のオンライン資料を抱え込むのではなくて、しっかりとした運営体制をもったところと連携しながら文化財の蓄積保存を行うということである。

利用等について

納本された資料は有形の図書館資料と同等の利用(同時アクセス制御のうえ館内閲覧、著作権法で認められる範囲内のプリントアウト)は出版ビジネスの阻害や権利侵害には当たらないとして、これまでと同様の館内利用等を行うものとしている。 出版業界には、これが将来的な利用拡大につながるのではないか、特に外部送信に対する懸念や不安がある。これは、同じ時期に文化審議会著作権分科会で、NDLのデジタルコレクションのインターネット上での個人向けの送信を拡大することが議論されていたこともあるだろう。電子書籍の提供についてはNDLがらみで進められているからである。なので、 関係する権利者の利益保護と一般利用者の利便性向上という両面への配慮が必要であることが報告書でも述べられている。また、有形・無形を問わずに日本国内で発行された出版物を統合的に検索する仕組みやアクセシビリティへの配慮が必要である。これは納本制度が国内で出版されたものの網羅的記録となる全国書誌のベースにあることについてオンライン資料についても変わらないということである。

補償について

今回の答申はこの補償の部分が中心であるが、小委員会でも審議会でもあまり議論はなかった。それは、たぶん事前に関係者間で話し合いが行われていて合意があったからなのだろう。しかしながら、全体に補償は行わないという原案が示されたときに少し驚いたことも確かだ。紙の出版物については定価の半額までの補償金が支出されることになっている。これは納本制度が始まった当初、民間のものについて、戦前の検閲のための納本ではないのだから、義務的な納本を要請するのに補償無しはありえないという議論があったことから来ている。それが、「ファイル本体について提供するための複製費用は軽微であり、また、有形の図書館資料と同等の利用を前提とすれば特別な経済的損失は発生しないため、補償を要しない。提供に係る手続費用について、最小限の作業(メタデータ付与、送信等)に限れば軽微であり、また、DRM が付される前のファイル提供を前提とすれば DRM 解除に係る特別な作業は発生しないため、補償を要しない。」となっている。ただし記録媒体に格納して送付する場合の媒体費用と送料については、補償が必要である。要するに実際にコストがかかるかどうかで考えれば全体に無視できる費用しかかからないという考えによる。

これは紙資料の印刷や製本と違って電子的な資料に複製や送信の費用がかからないというところから来ているのだろう。経済学的な限界費用という観点からすると論理的な表現なのだろう。しかし、出版のための費用という視点から考えると制作にかかる費用は印刷、製本、輸送などの物理的なものの経費は全体の一部にすぎず、多くは人件費になっているはずであり、それは電子的資料についても同様である。だから一部余分につくったり送ったりする費用という考えをとらずに、最初から全コストを発行部数で割り、その一部を補償金にするという考え方もあったのではないだろうか。

だが、電子資料についての補償金がいかにあるべきかを考えるには、従来の出版物と異なった考え方をとるというのが、すでに2012年の中間答申であった考え方のようだ。だから、制度収集の実効性を高めるためには、金銭的補償にこだわらず、政策的補償に相当するインセンティブが必要であるとか、著作の真正性の証明、データバックアップ機能、統合的検索サービスから本文情報へのナビゲートがインセンティブとして期待されるというような報告書の記述はそのことを示している。 (つづく)




2021-04-28

『アーカイブの思想』の書評

 今年の1月に刊行された『アーカイブの思想』はおかげ様で多くの読者を得つつある。あえてタイトルに「図書館」を入れないで出版してもらったことで版元には心配を掛けたが、それ自体は杞憂に終わった。確かに「図書館市場」というのがあって、そこに焦点を当てれば一定の部数が捌けるのだろうが、今回はこちらの我が侭を通させてもらった。4月に増刷されて当初の目標の販売部数は確保できたものと思う。

最初に、『週刊読書人』4月9日号に掲載された、「アーカイブと図書館を知り、よりよく活かす 対談=根本彰・田村俊作『アーカイブの思想』(みすず書房)刊行を機に」を紹介しておく。

https://dokushojin.com/reading.html?id=8084

田村俊作さんは慶應の図書館情報学専攻にずっとおられた方で辞められた後に、私が入れ替わりで入った経緯がある。その意味で互いによく分かっている者同士の話し合いということになった。田村さんはレファレンスサービスを中心に図書館現場のことをよくご存じでありその点からの話しのふりがあり、私はそれに対してそれをもっと広い観点から応じるという感じで展開した。この号全体が図書館特集という感じになっていることもあって、図書館周りの話しで終始したと思う。そこに地域資料、読書、独学など日本独特の知のシステムの問題について少し言及した。

新聞に出た本書の書評として次のものがある。

日経新聞(2/27) 評者:佐藤卓己(京都大学教授)

評者の佐藤さんは京大の教育学研究科でメディア史を担当している方で以前より交流がある。そのためにこの書評も「アーカイブ」のメディア的側面について紹介するものになっている。GAFAがいずれもbookにこだわりをもっていて「デジタル文明の基礎が書物であること」や、文書(記録)は歴史に関わり原点に視線をたえず引き戻すものであるのに対して、書物は道の読者にコピーを広めるという意味で思想形成に関わるもので両者は逆向きのベクトルになっていることなどが上手に提示される。このあたりは筆者自身でもユニークな視点と感じていたところであり、このように書いていただくとありがたい。また、幕末の「会読」がフンボルト理念のゼミナール方式と似ていて、いずれも学ぶ内容よりも学ぶ方法を重視しているということで、こうした観点で一貫している本書は「知の系譜学」と言えようかと評して終わっている。

山陰中央新報(4/3)沖縄タイムス(4/3)、岩手新報(4/4)、下野新聞(4/4)、新潟日報(4/4) 評者:永江朗(ライター)

共同通信によって地方紙に配信されているもので、他にもあると思われるが未確認である。著者のフリーランス・ライター永江さんは某会議でご一緒させていただいているなじみの方である。「アーカイブ」ということばをよく聞くようになったが、古代ギリシャに遡るもので、人間と言葉(あるいは情報)との関係の長い歴史がその背景にあるという描き出しから始まって、本書の副タイトル「言葉を知に変える仕組み」が秀逸としている。そして西洋で、図書館が知を共有するための機関として機能してきたのに対して、日本ではただで本を借りる「無料貸本屋」というレッテルが貼られているように、「過去」をうまく知として活かしていない。本書全体が知をどのように活かすかというテーマで一貫していることを見抜いていらっしゃる。


日刊ゲンダイ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/288115 (4/20)

こちらは今でもネット上で読むことができる匿名の書評。「アーカイブとは何か。本書は簡潔に「後から振り返るために知を蓄積して利用できるようにする仕組みないしそうしてできた知の蓄積のこと」という。要はしっかり、きちんと残して、後でいつでも使えるようにするということ。そこに初めて本物の「知」は生まれるのだというわけだ。この伝でいくと近ごろの役人など「痴」もいいところだろう。」で始まる。見方としては永江さんの書評と一緒だと思われる。


公明新聞電子版 2021年06月28日付(創価大学副学長・教授 神立孝一評 ) 

https://twitter.com/rv68SqkoDVoe0CS/status/1409245404621795331/photo/1

著者は創価大学で日本経済史を担当している方で、近世史料にも詳しいようだ。西洋思想史をたどりながら日本近代と接合させたストーリー展開を紹介した上で、知と知がネットワークでつながる仕組みであるアーカイブを活かそうという本書の趣旨を次のように述べている。「「アーカイブの思想」をうまく利用することで、現在を生きる我々は、知の営みをより充実させ、豊かにしていくことができるのではないか。本書は、こうした基本的な課題を提起する書物であり「アーカイブ」なのである。」とある。


以上、対談と4つの新聞書評を紹介した。他にもネット上の書評はいくつか出ている。これまで確認できる限りでは、本格的な学術的書評として『図書館界』73巻2号に福島幸宏さんの書評と『日本史学集録』(筑波大学日本史談話会) に中野目徹さんの書評が出たので今後応答していく予定である。筆者としては、このような見方が図書館情報学だけでなく、アーカイブズ学、歴史学、哲学・思想史、メディア論、教育学など本書が言及している人文系の領域でどのように論じられるのかについて関心を寄せている。個々によく知られているものを「アーカイブ」という観点で一貫して系譜を見てみたというのが本書である。だから人によっては物足りないように見えるかもしれない。しかしながら、本書はまさに「アーカイブ」という見方が従来のディシプリンを超えるものであることを主張しているものである。

今後は理論的な整理をしてみたい。実はアーカイブは20世紀後半以降にフランスの思想家達によって思想として論じられていたし、それについてほんの少しだけ言及してもいる。今後、余裕があれば理論面にとりくみ図書館とアーカイブの関係についてさらに論じることを考えている。基本的には、本書ではフーコーのディスクール、エノンセ、アルシーヴの区別の議論を踏まえているが、さらには、デリダのアルシーヴ論、そして、リクールのアルシーヴ論などとの関係を自分なりに整理しておく必要がある。また、ところどころで触れている声と文字の関係、言霊論、オーラルな文化あるいは身体性との関係、エクリチュールの現代的展開(野間秀樹、下田正弘など)、他方、教育コミュニケーションにおける構成主義的立場の問題など、考えてみたいことは多い。これも、ここまでやってようやく関係が見えてきたということでもあるので、今後少しずつ進めたい。

追記:今後の課題で英米圏の図書館論についても言及しておくと、Charles B. Osburn, The Social Transcript: Uncovering Library Philosophy (Libraries Unlimited, 2009)という本がある。副題にあるように図書館の哲学を整理した本で、なかではピアース・バトラー、ジェッシー・シェラ、ランガナタンなど現代図書館学の古典を検討した上で、図書館哲学は確立されていないという。そこで手がかりにするのは、アメリカの経済思想家ケネス・ボールディングのsocial scriptという概念である。transcriptは転写などと訳すが、script(台本、脚本、原稿、筆記)にtransをつけたもので、要するに文化が書かれたものによって媒介されることを指す。ボールディングが1956年に書いたThe Image: Knowledge in Life and Society (University of Michigan Press)は1962年に誠信書房から『ザ・イメージ』という邦題で翻訳も出ている。このなかで、当時の文化人類学の知見なども活かしながら社会において知が言葉によって伝えられる際に書かれたものの役割が重要であることを強調した。オズバーンはボールディングの議論を再評価して、図書館についてのみならず社会における知の伝達を論じている。その意味で、私が使ったアーカイブの概念と近いことは確かで、きちんと読んでみたいと思う。ただし、書評(by Wayne Bivens-Tatum, portal: Libraries and the Academy,11(1), Jan. 2011, p. 584-585, http://muse.jhu.edu/journals/portal_libraries_and_the_academy/summary/v011/11.1.bivens-tatum.html)にあるように、この本は多分野の議論を参照しているがいささかまとまりに欠けるところがあるように思われる。ボールディングが文化人類学の知見を参照して、西洋文明 vs. 「未開文明」の対抗軸を枠組みにしているのに対して、単に、図書館の作用を抽象化して示すだけでは本質が見えてこないのではないかと思われる。

公開 2021年4月28日 10:30

改訂 2021年4月28日 17:00

第2改訂 2021年6月3日 11:30

第3改訂 2021年6月28日 10:13

第4改訂 2021年7月15日 17:48

第5改訂 2021年9月4日 11:19


<追記> 2022年9月20日(火)

本書の書評について次の3回のブログで紹介している。

 2021年9月4日

   2021年9月4日

 2022年9月16日






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