2021-10-12

なぜ国際バカロレアを取り上げるのか?

「国際バカロレアなんて関係ないと思っているあなたに:

これは日本の学校教育の根底を揺さぶるもので、文科省は大臣官房にそのセクションを置いて支援しています。この動きは新学習指導要領で「探究」学習が位置付けられたことと関わります。そして探究するには図書館は必須なのですね。」フェイスブックへの書き込み 2021年9月24日

以前にこのような書き込みをしました。私の国際バカロレアと学校図書館の関係についてのこれまでの見解はこちらをご覧ください。ここでは、その後の考察の一端を書いておきます。今回、アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館ー探究学習を支援する』(学文社)の翻訳に関わったことを契機に考えたことについてお伝えしたいと思います。

国際バカロレアと日本の学校のカリキュラムの違い

国際バカロレアは、学習者が探究者あるいは研究者であることを前提にした学びの方法を提示するという意味で、日本の通常の学校で実施されているものと違っています。常に批判的思考をすることが求められます。そのために、テキストを読んで教員が解説を行うことはするとしても、それらは「知識についての主張(knowledge claims)」として扱われ、質問や議論が伴うし、学習者はさらなる探究に基づくエッセイの執筆やプレゼンテーションを行うことになっています。

日本の一般の学校(私立大学付属校など一部の学校は除く)で採用されている中等教育カリキュラムでは、教科書で学ぶ内容を提示し、あとは演習問題を解き、試験で達成度を評価するという方法をとります。たとえば、歴史は年表的な事実の展開過程を学ぶものとされ、学習指導要領にその範囲が明示されるし、ふつうは検定教科書の記述範囲が入試等でも問われることになります。高校の歴史では山川出版社の教科書のシェアが高く、これは日本人の歴史知識の基盤を構成し、そうした歴史観は、多くの日本人に固定的な歴史観を植え付けるものになってきました。つまり、歴史とは時系列的な歴史的事件の展開であり、そこではいつどこで何が起こったのか、それが起こる背景に何があったのかを探るのが歴史の学びですが、それらに最初から正解があることが重要です。指導要領は10年に1度改訂になるのですが、その際に、後追いでその間にあった歴史学による研究の進展を基にした歴史記述の書き替えが行われます。逆に言えば、歴史学の学会で一定の了解が得られるまで待って後追いの知識が教えられているということもできます。

文科省もこうした固定的な知識観に対する修正を入れていることは確かであり、たとえば「総合的な学習の時間」を設けて、教科の縦割りや知識暗記型の学習観を変えようとしています。2018年に改訂された学習指導要領では、2020年代に高校では「総合的探究の時間」とし、他にも「日本史探究」や「地理探究」「古典探究」といった時間枠を設けて、探究型の学習を増やそうとしようとしています。

指導要領が改訂されてこれに対応したのは朗報ですが、問題はそうした従来とは正反対の教育学的な指導法に教員は対応できるのかということです。「総合的学習の時間」も「総合的探究の時間」もそのための専門の教員養成は行われず、教科教員が兼ねることになっています。探究学習の経験がない教員が対応するためのノウハウはどのようにして得られるのでしょうか。そこで注目されるのが、国際バカロレア・ディプロマプログラム(IBDP)です。IBDPはさきほど述べたように、徹底して学びの方法に注目したカリキュラムを提供します。

探究学習を進めることの意味

IBDPにおいては、とくにコアと呼ばれる3つの科目に典型ですが、それ以外の教科においても学ぶ方法を重視し、学ぶ内容自体はそれほど重要ではないという考え方です。たとえば歴史を学ぶのにある特定の時代の歴史的事象がなぜあったのか、その背景は何なのか、それをどのように歴史家は記述してきたのかという歴史の見方を学んでおけば、他の時代の歴史は別に学ばなくとも応用が利くという考え方です。だから通史的な歴史事象を時系列的に学ぶことはしません。歴史的事実が先にあるのではなく、歴史とは学習者自らの歴史認識を構築することであるという考え方です。実はこれは現在の歴史学の基本的態度であり、言語論的転回以降の人文系の方法論的運動の一環で歴史学においても大きな方法ないし認識基盤の変化があるとされています。これは歴史学でいえばパブリック・ヒストリーの前提になる考え方です(菅豊、北條勝貴編『パブリック・ヒストリー入門』勉誠出版, 2019)。

私が国際バカロレアにコミットしているのは、『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』や『アーカイブの思想』で述べた日本の教育の限界とそれを乗り越えるために、こうした学習方法が有効であることをもっと広い範囲の人々に理解してほしいからです。そして、こうした学習のために学習資料を豊富に提示できる学校図書館が必須であるということを教育関係者全般にも理解してもらいたいと思っています。

従来から、東大、京大を始めとして論述式の試験をやっている大学は少なくないし、小論文を課している大学は多いのですが、こういうところでよい文章を書いて成績を上げるためには、高校の通常の授業を通してそのための準備をする必要がありました。文章を書くという行為は知を自分で展開することを伴います。従来の学びの問題は、年表的な歴史観とは対局にある探究的な思考法がどのようにして学べるのかを考えていなかったことにあったわけです。読み、暗記するところから、読み、調べ、書くことへの転換が必要です。

今、探究と言っているのは別に自然観察や実験、社会調査、インタビューのように対象に働き掛けてデータや情報を獲得するものだけを指しているのではありません。IBDPのコアの「知の理論」(TOK)においては、人は知識をどのように獲得してきたのかという命題を中心にしてカリキュラムが構成されています。この場合に、知識を獲得する方法として、自然科学や社会科学のようなものだけでなく、哲学や宗教的な知、そして、地域社会や民族集団などが知としているものすべてが対象になり、その全体を学ぶわけです。その際に手がかりにするのは、主として知のリソースとしての文献資料や映像資料です。そうしたリソースを批判的に読み解き、議論し、発表し、書くことを行います。そこで図書館の重要性が説かれるわけです。TOKはきわめて野心的なプログラムであり、ある意味では知の在り方自体を問う(昔の意味での)哲学(philosophy)であるということができるでしょうが、これが成立するためには図書館的な外部知のリソースをシステム的に提供する仕組みが必要です。

おわりに

こうしたとらえ方は探究学習をいささか理想主義的に見すぎているのかもしれません。実際には、そんなことを指導できる教員がどのくらいいるのか、外部のリソースの提供がどの程度学校図書館で可能なのか、教員と図書館員の協働がうまく行くのかといったあたりのことがあります。最後の部分については、アンソニー・ティルクの本でも、図書館情報学における学校図書館論は教育学とうまくつながっていないことを批判しています。ただし、私は日本の教育があまりにも知を固定的に捉えすぎているところに、図書館を軽視する風潮の根源的理由があると考えています。長期的には学校教育に探究学習が導入されることがそうした風潮の否定につながるものと考えます。

このあたりについては、拙著『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』『アーカイブの思想』をご覧ください。また、11月13日(土)の三田図書館・情報学会で「IBDPの「知の理論(TOK)「課題論文(EE)」が図書館情報学に示唆するもの」という発表を行う予定です。他方、日本の学校図書館関係者が職員問題に気をとられすぎてあまりにも政策形成過程に無頓着であるのに警鐘を鳴らそうと思い、10月16日(土)の日本図書館情報学会で「戦後学校図書館政策のマクロ分析」という発表をします。






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