2021-09-23

「国際バカロレアと学校図書館」公開シンポジウム(追加:翻訳書割引購入のお知らせ)

国際バカロレアと学校図書館」公開シンポジウム





主催:「国際バカロレアと学校図書館」研究会(科学研究費補助金19K12721)

後援:文部科学省IB教育推進コンソーシアム事務局

日時:2021年11月23日(火・祝日)午後2時〜午後5時

開催方法:Zoomによるオンライン会議方式、事前申し込み制、参加無料


[開催趣旨]

アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館——探究学習を支援する』(根本彰監訳、中田彩・松田ユリ子訳、学文社刊)の刊行を機に、国際バカロレア・ディプロマプログラム(IBDP)のカリキュラムの中心にある探究学習を進めるのにあたり、学校図書館がどのような位置づけをもつのかについて、広く関係者の意見交換の場にする。

[プログラム]

総合司会  松田ユリ子(神奈川県立新羽高等学校司書)

主催者挨拶 根本彰(東京大学名誉教授)

ビデオメッセージ(日本語字幕付き)

  アンソニー・ティルク(オランダ・ハーグ、アメリカンスクール図書館長)

<発言>

ダッタ・シャミ(岡山理科大学教授・日本国際バカロレア教育学会副会長)

「探究を基盤とした教授学習と学校図書館」

梶木尚美(前大阪教育大学附属高等学校池田校舎教諭)

「DP歴史の授業と学校図書館ー教科担当教員の立場よりー」

高松美紀(東京都立狛江高等学校指導教諭)

「国際バカロレアが示唆する日本の学校図書館の課題と可能性―21世紀型の学びのキーとなる図書館/ライブラリアン―」

<休憩>

小澤大心(文部科学省IB教育推進コンソーシアム事務局長)

文部科学省としてのIB教育推進の取り組み」

<パネルディスカッション>

司会 中田彩(大阪市立水都国際中学校・高校司書教諭)

・ダッタ・シャミ(兼英語通訳)

・梶木尚美

・高松美紀

・小澤大心

・アンソニー・ティルク


[参加方法]

参加希望者は、次のサイトで申し込みとアンケートへの回答をお願いします。

https://forms.gle/BDxwASgMWvctcPFH8


[アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館』の購入]

参加申し込みをすると、本が1割引き(消費税・送料込み2200円)で購入することができます。申し込みの確認メールに注文方法が書いてあります。


【問い合わせ先】

ibdp.sl.inquiry@gmail.com



2021-09-16

メタファーとしての図書館

次のショートエッセイはある理由で、予定していた出版物への掲載を控えたものですが、せっかく書いたものなので、ここに公表することにします。


メタファーとしての図書館 Ⓒ根本彰

ヒューマンライブラリー(坪井, 横田, 工藤,2018)とかシードライブラリー(種の図書館)(Conne,2015)という運動がある。ヒューマンライブラリーは個人の人生を語ることで人間の相互理解を深めることを目的にし、シードライブラリーは植物の種子の保存と育成法を通して持続可能な社会を目指すという目的をもつ。前者は人そのもの、そして後者は植物の種を「貸し出す」という方法をとる。これらは資源の蓄積と再利用という図書館の手法を比喩として用いて実践的な活動を行うものである。コンピュータプログラミング用語にも「ライブラリ」があり、共通の機能をもつプログラムを再利用可能なかたちで用いるもので、同様の発想に基づくネーミングである。

他方、図書館について「大学の盲腸になってしまわないように…」とか「大学の馬の尻尾」といったようなネガティブな比喩で語られることがあった。19世紀後半にアメリカで研究大学構想を打ち立てたジョンズ・ホプキンス大学のD. C. ギルマン総長は「大学図書館は大学の心臓である。もし心臓が虚弱であれば他の全ての機関の機能はにぶる。もし心臓が強かったら, 溌刺として踊るであろう」と言ったとされる(山崎,1996)。これらは人体部位を図書館の比喩として用いる例である。研究大学で文献資料は血液であり現代的な図書館サービスはそれを送り出す心臓との位置付けをもった。

●迷宮、バベルの図書館 

西洋では古代ギリシア、ローマの著述家の写本が修道院や教会、そして大学のコレクションとして引き継がれ、あるものは東方のイスラム圏を経由して中世末期にヨーロッパに伝えられた。近代の人文学は、そうした多ルートで伝わった書物の蓄積からテクストを読み解き、相互関係がどうなっているのかを明らかにすることから始まった。こうして、多数の系譜により蓄積され相互に連関する書き言葉(テキスト)やドキュメントの集合体を図書館というメタファーでとらえることは、多くの思想家、文学者が試みてきた。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』に出てくる北イタリアの修道院図書館はキリスト教神学と異端思想の拮抗の場として描かれている(エーコ,1990)。村上春樹の『図書館奇譚』は日常性の裏側に恐怖が潜む空間をめぐる物語である(村上,2014)。いずれも迷宮であるという点で共通している。

作家でアルゼンチン国立図書館長も務めていたボルヘスによる小説集『伝奇集』に描かれた「バベルの図書館」は、巨大な球体でありそのまんなかに無限階分の閲覧室が六角柱の連なりに穿たれたもので成り立っている。各階の6つの壁にはそれぞれ5段の書棚があり、各段に32冊の本が収納される…という記述で始まる。この図書館に納められた無数の本は、ありとあらゆる言語のありとあらゆる主題について書かれながら相互に内容的な関係をもちつつ同じ内容のものはない。それを管理する司書たちはその本の書誌学的な研究をしながら管理しているというものである(ボルヘス,1993)。

●夜の書斎とアルシーヴ

 ボルヘスの奇想は同時代の思想家フーコーの幻想の図書館論と通じている。彼は、夜の書斎においては一冊の本が別の本とつながり、ある本の一節から記憶の片隅の別の一節が浮かび上がるがその連想がどこから来るのか説明がつかないとし、「朝の書斎が見通しのきくまっとうな世界秩序をあらわすとしたら、夜の書斎はこの世界の本質ともいうべき、喜ばしい混乱をことほいでいるように思える」と述べる(フーコー 2006, p164)。夜の書斎はバベルの図書館の部分集合である。フーコーの初期の研究では、西洋の知の伝統のなかに臨床医学や精神医学、刑務所などの制度が立ち上がる瞬間を記述する方法としてアルシーヴの考古学あるいは系譜学を主張した。(フーコー 2012)ここでアルシーヴとはこのような相互にリンクし合うテクストの集合体であり、人文学はその関係の読み取りを行う取り組みである。そこに従来の図書館情報学で重視してきた著者性(authorship)の要素は希薄である。

●AI図書館とシュワの墓所

電子図書館は、数値データ、テキスト、画像、音声、動画といったコンテンツがインターネットにハイパーテキストで相互にリンクされた状態でオープン化されて、アクセス可能になっている状態のことであり、そこでは検索エンジンが目録の役割を果たすというイメージが広く共有されている。これが拡張された現代的普遍図書館の考え方である。検索エンジンの仕組みは言語処理による検索タームの一致度に基づいている。AIもまたその延長上にあり、インテリジェンスといっても個々のコンテンツに付与された、あるいは、そこから抽出された言語タームを一定のルールに基づいて統計的に処理する技術の集合である。検索エンジンはディープラーニングの仕組みを備えた一種のAIであり、多くの人が日常的にスマートフォンやタブレットでグーグル検索をしているのだから、図書館の領域ではシンギュラリティ(技術的特異点)に近づいているという見方もできる。

科学知識とそれを応用する技術を組み合わせて発展してきた近代文明の究極の展開として、AI的な知的装置を描いたフィクションでは多くの場合、最終的に文明はAIに裏切られるかAIの失敗によって崩壊する。宮崎駿の長編漫画『風の谷のナウシカ』の終盤で、主人公の少女ナウシカは、すべての知・記憶や生命を技術やアルゴリズムでコントロールする仕組みである「シュワの墓所」の主に対して、この仕組みを否定し、混沌と汚濁のなかからこそ文明や生命が生み出され、秩序の欠けた環境こそがよりどころになると宣言する(宮崎 1994, 第7巻)。

一見すると秩序づけられた空間に無数の本を納めたように見える図書館ではあるが、実は知の世界がもつ無定形性と相互連関のいずれの特性をも示している。図書館を実体的にとらえる立場においても、このようなメタファーから出発することで新しい視野が開ける可能性がある。


【引用文献リスト】

1 Conne, Cindy(2015)Seed Libraries: And Other Means of Keeping Seeds in the Hands of the People, New Society Publishers

2 エーコ, ウンベルト 河島英明訳(1990) 『薔薇の名前』上下, 東京創元社

3 フーコー, ミシェル 小林康夫他編 (2006)『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』筑摩書房

4 フーコー, ミシェル 慎改康之訳(2012)『知の考古学』河出書房新社

5 ボルヘス, J. L.,鼓直訳(1993)『伝奇集』岩波書店

6 坪井健, 横田雅弘, 工藤和宏編(2018)『ヒューマンライブラリー:多様性を育む「人を貸し出す図書館」の実践と研究』 明石書店

7 宮崎駿(1994)『風の谷のナウシカ』全7巻, 徳間書店

8 村上春樹(2014)『図書館奇譚』新潮社 

9 山崎賢二(1996)「図書館の比喩としての「心臓」」『医学図書館』43巻2号, 252-256


2021-09-04

『アーカイブの思想』の書評(3)

根本彰『アーカイブの思想——言葉を知に変える仕組み』(みすず書房, 2021)に対する書評(2)の続きです。

書評者:中野目徹氏『日本史学集録』(筑波大学日本史談話会) 42号, 2021年7月, p.49-52.  (アクセスはこちら

【謝辞】この雑誌は筑波大学関係者を中心とした研究会の雑誌であるが、オープンジャーナルとなっていないのでなかなかアクセスしにくい。そこで評者の許諾を得てこのブログで読めるようにした。掲載を許可していただいた評者に御礼申し上げる。

はじめに

中野目氏は筑波大学で近代日本思想史を担当している歴史学者である。この書評の最初に出てくるように、2020年3月に私が慶應義塾大学を退職するにあたって最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していて、そのときに招待してお話しを伺おうとした方である。そのイベントはコロナ禍で中止になった。どういうイベントが予定されていたかに関心があればここを見ていただきたい。拙著自体がそのときの最終講義で予定していた内容を大きく展開したものであったが、氏の書評もまたそのイベントでお話しになる予定であったところから出発しているということだ。このような形でお返しいただいたことに感謝申し上げたい。

実は氏と20年前からの因縁があったことは、この書評の後半に、拙著『文献世界の構造——書誌コントロール論序説』(勁草書房, 1999)で述べたことが北海道文書館職員(当時)青山英幸氏の著書『記録から記録史料へ——アーカイバル・コントロール論序説』(岩田書院, 2002)で方法として用いられ、青山氏の著書の書評を中野目氏が書いていたとあることから分かる。書誌コントロールとアーカイバル・コントロールとの関係は図書館の方法と文書館の方法の関係に相当する。私自身は青山氏から同書をいただいていたが、あまりそのことを考察しようとしていなかった。改めて考えてみると20年越しで『アーカイブの思想』を書いたことの遠因に両者の関係の重要性に気づかされたことがあったのかもしれない。今なら、もう少し知識組織化の方法の議論に踏み込むところなのだろうが、今回は少し触れただけであり今後の課題の一つとなる。

以上のことは措いても、中野目氏は思想史学者であるが筑波大学に赴任する前に国立公文書館にいらして『近代史料学の射程』の著書もあるように、公文書や公文書館について詳しいし、現在でも筑波大学文書館の責任者を務めている。つまり、私が図書館の専門家であるとすればアーカイブズの専門家でもある。だから本書が「アーカイブ」を名乗りながら実は「アーカイブズ」についての記述が弱いことはすぐに見抜いただろう。ただ、そのことはおくびにも出さず、本書をintellectual historyの視点から読んでくれたという言う。これはたいへんありがたい。

私にとって思想や歴史という領域は今でこそ身近となったが、かつては遠い領域であった。1970年代前半に文系の大学に入ったものとして、錚々たる人たちが侃々諤々の議論をしている思想や歴史の壁はたいへん高く厚く思え、まったく違ったアプローチをとることを選択した。そういう自分が半世紀してそうした領域に近づくことは冒険でもあった。本書で何度か言及したように、西洋の人文知の成り立ちを意識する見方を日本の人文社会科学の領域にぶつけてみることこそが、下手の横好きとか大風呂敷とか言われようとも、本書の独自性であり、それを正面から読み取ろうとしてくれたということがうれしいものであった。

アーカイブとドキュメントの違い

書評では本書の構成に沿って全体を紹介した上で、最後に3点の著者に「教示願いたい点」を指摘している。これに答えるのが著者の務めであるだろう。以下、襟を正して批評への応答を試みたい。

まず、本書の冒頭で「アーカイブ」と「ドキュメント」を定義しその違いと関係について述べている。評者はこれが「アーカイブズ(文書館)と図書館(さらにアーカイブズ学と図書館学)の関係にほかならないが、両者の位置関係が不明瞭であり、本書の主題と対象の不明瞭さにつながっている」と感じられたとしている。とりわけ、日本の近代化を論じた第9講について、「今後より一層検討を加えていく必要がある」と述べている。第9講が近代思想史家の眼からするとずさんな議論にも見えるだろうとは予測できることである。この分野について、日本史学なり近代思想史学なりの蓄積がすでに大量にあり、それからつまみ食い的に取り出して論じているようにも見えるだろうからである。だから、問われるべきは、そのつまみ食い的取り上げ方の正当性を主張するための方法的根拠である。そして評者は、著者がそれをアーカイブとドキュメントの違いを基に展開していると読んだのであろう。

本書の立場を言い換えると、「アーカイブ」とは起源へと回帰するベクトルであり、「ドキュメント」とは逆に未来へ向けて拡散するベクトルであるということになる。アーカイブと歴史、ドキュメントと知を対応させているのはそのためである。歴史学は現在を構成するものの最初がどうであったのかを問い、それを明らかにするのがアーカイブズ(オリジナルな文書や記録類)であるとする。他方、それ以外の人文社会系の学問は本書の立場から言えば起源後の現象の展開についての知である。知を獲得する方法はそれぞれの学問毎にあるが、それで構成された知はいずれも仮説にすぎない。そして、知は自らの支持者を増やすために拡散の方向で展開する。書物、論文、ネットいずれもがコピーであり拡散のためのツールである。実は歴史学の問いも現在を説明するために行うものであり、起源を問いながらなおかつその解釈を行うという意味で他の人文社会諸科学と変わりはない。つまり、歴史学もそれ以外の人文社会科学もいずれもアーカイブ、ドキュメント両方のベクトルをもちながら、自らを形成してきたと考えるべきなのだろう。

極論すれば、アーカイブはオリジナル、ドキュメントはコピーを志向するが、その関係は相対的にしか決まらないということになる。文書館と図書館の関係もここから導かれる。一点しかない文書、その写本、版本、影印本、文書を集めて編纂して活字化した資料集、この文書を解説した書物があるとして、文書館はどれを集めてコレクションにするのか、図書館はどうか。どこまでがアーカイブズでどこからがドキュメントか。それは一律には決まらないが、しかしながら論理は明快である。

あらゆる学問において先行研究の確認が行われる。たとえば理系の研究で先行研究と言えば、当該領域の最新の研究成果である。だが、研究史を遡ってその研究を手掛けた最初の論文にはすでに研究上の価値はなくなっている。とはいえ、STAP細胞事件のようにひとたびその研究がフェイクの疑いがかけられたとき、たちまち当初の論文は研究史的な意味でのアーカイブとなり検証の対象になる。このことを逆に言えば、理系の研究論文は最初の論文が査読を通り公表された段階でアーカイブの段階からドキュメントの段階になり拡散の道をたどるということである。そして通常、アーカイブを問題にすることはない。アーカイブの真正性がドキュメント拡散のプロセスに埋もれているからである。ただし、この場合でもアーカイブは常に検証の対象として存在している。

このように、アーカイブはいずれドキュメントに変わる。そのタイミングが自然科学と人文社会科学では異なっているということである。また、ドキュメントの分析自体を行う文学や哲学などの領域はドキュメントをアーカイブととらえているとも言える。たとえばゲーテでもルソーでも福澤諭吉でもいいが、文学や思想研究者がいちいち著者のオリジナルの原稿を読みにアーカイブズに行くことはないと言ってよい。原稿のファクシミリ版のようなようなものを読む場合、刊本になった全集本を読む場合、さらにはその翻訳の文庫本を読む場合でも、それはアーカイブを読んでいるわけである。それは書誌学的な校訂を受けて原典と同一である、あるいは原典にもっとも近いものとして読んでいる。翻訳ですら、原典を忠実に訳したものとして扱われる。これらもドキュメントであると同時にそういう手続きを経てアーカイブが埋め込まれていると考えられる。

中野目氏の疑問に戻ると、だから両者の関係が曖昧に見えるのは仕方がない。さらに、両者の原理的な違いと相互関係は文書館や図書館の制度的違いとは対応しにくいところもでてくる。たとえば、内閣文庫(現国立公文書館)のようにドキュメントをもつアーカイブズがあったり、憲政資料室のようなアーカイブズを国立国会図書館が部門としてもったりすることがあるわけである。両者の関係は、戦後改革でGHQ/SCAPが図書館を重視したことによって、一時的に図書館が制度化されたことにより、関係者が国立国会図書館を文書館として用いたことにある。だが、同館のモデルになったアメリカ議会図書館(LC)は近くに国立公文書館(NA)があるのに、アーカイブズのセクションをもち大量の資料を集めて公開しているから、別に日本の特殊事情とは言えないだろう。公文書館法、公文書管理法以降の日本では、公文書館を発展させている状態で図書館や博物館などにあったアーカイブズを改めて文書館に移管することも進行している。ようやくアーカイブズが公文書館で扱われるような事態が生まれつつある。

東洋の書物と文庫

次に、本書が欧米の人文学的なコンテクストのなかで図書館のことを語り、中国や日本の書物や文庫などの知の系譜との関係の整理が十分ではないとの点である。本書では第8講まで西洋の知の系譜について述べて、第9講で日本の対応するものがどうなのかという議論をしている。江戸期の書物とその蓄積および流通と知識人の交流について少し述べ、また幕末には会読のような西洋で行われていた知の交流と深化させる方法があったことについても述べている。しかしながら、それが明治政府が本格的に稼働するにつれて、国力を強化することが目標になり、知の領域も蓄積しながら自由な交流を前提にするのではなくて、知を輸入して翻訳して配布するようなものが中心であったと述べている。内部に蓄積しつつ新しい知を創造するのではなく、外部からの翻訳学問が中心になっていくことや、国民自体を国力と位置付ける観点から、学校教育における知および倫理の在り方を国家が統制していったことについて批判的な議論を行った。

評者はもとより日本思想史の研究者として、それでは江戸期までの知の蓄積との関係がよく見えないという批判をお持ちなのだと思う。本書でも国学的伝統が天皇制国家の知的倫理的水準を決定づけたことについては言及しているが、氏が指摘している、明治のジャーナリスト徳富蘇峰の成簣堂文庫に和漢洋の資料の蓄積があることで分かるように、明治の知識人が決して漢学や国学の伝統だけではなく、中国、仏教、洋学のさまざまな知を吸収しながら議論していったことは確かだろう。明治初期の啓蒙主義者のなかで天皇制の推進者になった人が少なくないことは確かであるが、このあたりの事情を十分に把握して論じることはできていない。また、中国や日本の文庫的伝統や類書、考証、類聚、編纂物といった「書物のアーカイブ戦略」(本書p223以降)についての考察や日本の教養主義と修養主義の関係、そして出版と知の流通の考察(p246以降)はあるが、全体としてきちんと検討が進めらることはできていない。それは西洋の知の系譜を基準にして日本のことを議論したことによる限界であることは自覚している。

ただ、一点言い訳のように付け加えておけば、西洋の知的伝統の在り方とアーカイブの思想が近しいものであり、それが図書館や文書館といった制度面に現れていることを強調したかったことは確かである。これは、図書館情報学という分野が制度としての図書館が十分に展開しないと成り立たないという弱点をもっていることと関わっている。近代日本の書物の問題は私自身の課題であると同時にこの時代のさまざまな領域の研究者が進めてくれているので今後ともいっしょに考えていきたいことである。

デジタルアーカイブについて

多くの記録物がボーンデジタルで発生し、すぐにネットで使用可能になる状況についても十分に議論していない。また、評者があえて「デジタルアーカイブズ」と表記された文書・記録史料類のデジタル化についても本書では述べていない。私自身は入っていないがデジタルアーカイブ学会の活動もあり、近しいけれども遠巻きに眺めているという感じである。というのは、これは今のデジタル庁創設の動きとも密接にからむもので、国のICT対策が出遅れているという危機感を先取りしてデジタルコンテンツの創出を目指すが、やはりそうした時流に乗った動きとも見えるからである。時流に乗ることもときには重要でむしろ図書館の領域は乗るのに失敗してきた歴史とも言えないことはない。ただ、どうも気質的にそういうものから離れたがるところがある。

もう少しこれまで述べてきたことの延長上で議論すれば、デジタルアーカイブはアーカイブといいながらドキュメントの拡散をデジタルネットワークの上で目指す手法である。確かに一点しかないアーカイブズがどこにいても画面上で見ることができるというメリットがあることは何にもまして否定できない。これは図書館の領域でも同様で、国立国会図書館のデジタルコレクションがネット上で公開されたことで人文社会系の研究者が今まで知らなかった、あるいは入手できなかった古い資料に容易にアクセスできるようになったことを歓迎する声をいろんなところで耳にする。だから、日本の貧弱なアーカイブ環境を改善する重要な手法であることは間違いない。これに、ジャパンサーチの横断検索の機能によって個別の機関がつくるデジタルコンテンツへのアクセスがさらに容易になることが拍車を掛けている。

だが、物事には両面があるもので、この手法がアーカイブと名付けられ、これによってアーカイブ問題が解決すると考える人が出てくるとしたらそれは大きな問題だろう。これはアーカイブズ関係者には自明のことだが、デジタルアーカイブの素はあくまでもすでにある紙ないしはパッケージ系のメディアであり、過去存在していたが消失したり行方不明になっものを掘り出してアーカイブ化することではないし、また、これによって、公文書の移管手続きが進んだり、ボーンデジタルの公文書類が保存されるようになることでもない。つまり制度として問題になっている公文書の保存公開や公文書館への移管問題とは直接関係ないのだが、そうした問題が存在することの目くらましの効果もあることに不安を覚えているということである。

言い換えれば、私が考えるアーカイブズの世界においては、アーカイブズの存在を認識しそれを意識的に残すことから始まり、あとは組織的に保存し、必要に応じて公文書館に移して組織化して利用可能にするところまでを含むのだが、デジタルアーカイブはその最後の部分にはきわめて有効だが他の部分には影響がないということである。全体としてバランスのよい展開を考える必要があると思う。

おわりに

思いがけず真摯な書評をいただいたので、余計なことを含めて書きすぎてしまったかもしれない。本書のなかで大元の図書館情報学に当たる部分は全体のごく一部で、中心は歴史学、哲学・思想史、教育史・教育哲学、文学史・文学理論などに拡がっている。自分にとって他分野の方からのレスポンスをいただくことも経験した。また、そうした交流によって新しい分野が開けていることも分かってきた。21世紀も20年がすぎて本格的な新世紀の相貌が現れつつある昨今であるが、知の状況を俯瞰的に見る方法論を探るのが楽しいという実感はある。

『アーカイブの思想』の書評(2)

 前回の書評紹介に続けて、その後に出た書評を紹介し、若干の応答をしておきたい。

書評者:福島幸宏氏『図書館界』(日本図書館研究会刊)73巻2号, 2021年7月 p.146-147. 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/toshokankai/73/2/73_146/_article/-char/ja/ (エンバーゴによって現在は会員以外は半分しか読めない。発行1年後にエンバーゴが解けたら全部読める)

自主的な研究会で直接コメントしていただいたものと基本的に同じ内容なのでそのときの回答文書を転載しておく。なお、福島氏は現在、慶應大学の文学部図書館・情報学専攻に所属している。それも奇しくも私が出た後の机を使っておられる。部屋ではなく机である。というのは、この専攻の教員が大部屋にいることは知る人ぞ知ることであり、それはここがジャパンライブラリスクールだった頃からの伝統である...

応答 1

 東アジアと日本との関係について、西洋中心主義ではない見方をすることの重要性は言うまでもないのですが、私のとりあえずの役割は日本の学問が20世紀までに依って立っていた基盤をもう一度点検して、そこにアーカイブなり図書館なりを位置づけをすることにありました。それはお話ししたように、一部の分野を除くと大学での学問が西洋の学問を基にして形成されてきたからです。そこで、古代ギリシア以来の人文学の系譜を記述し、その系譜のなかで使える概念装置を選択し、それを基にして日本の近代化を点検するという方法をとりました。ウォーラーステインは必ずしもヨーロッパ中心主義ではなくて歴史的に大きな地域ブロック間のダイナミックな関係を描き出そうとしていましたが、資本主義の発展を前提としている限り、ヨーロッパ近代の拡張という視点は避けられなかったわけです。それを本書で扱っている文化領域に当てはめて議論できないという批判はありえると思います。しかしながら、本書の目的がアーカイブに対する政策的な視点を強調するところにあったので、国民国家の成立とそこでの教育政策なり文化政策の(西洋的発展を基準にした)歪みということにならざるをえませんでした。

 これが東洋的なあるいは中国的な統治思想を前提としたアーカイブ構築を考えると、確かに官が効率的に情報操作をするような在り方がもう一つのモデルとなり、日本の政府が目指しているのも実はそうしたもののような気もします。とすると、西洋対東洋の統治思想の対立という視点から再度見直すことも可能かもしれません。福澤諭吉を思想的淵源とする慶應義塾での授業であり、そうした問題設定は次の課題として西洋的なものを前提として語ったというところです。

2. 日本—中国—西洋という3層構造という図式はかなりナイーブであまり学問的な議論になじまないものだと思います。これはイントロダクションで学生に対して扱う領域がきわめて広汎であることを告知するためのレトリックということにさせてください。

応答2

国民国家から帝国主義の時代のナショナルな制度と文化を中心に語ったのはそのとおりです。これもまた戦後政治の枠組みを意識すればそこからスタートせざるを得ないからです。バブル崩壊=冷戦終了の後の状況を考えると、「次」の考察が十分でないことも自覚はしています。ただ、それについては迷いがあるのですね。

西洋的な知の伝達モデルが結局のところ産業社会を生み出し、経済成長が個人の幸福と結びつくという神話になったわけですが、その先に何があるのかということです。この神話は中国を典型として専制主義+資本主義の組み合わせを生み出しています。これは日本の近代化過程を参考にしているわけですが、現在の日本は西洋的な市民主義的デモクラシーとそうした統制されたデモクラシーの中間にあり、今後、どちらを目指すのかについて明確なビジョンが得られていません。

他方、GAFAのようなグローバルなICT資本はデジタル・プラットフォームを駆使して国家を超えた新しいネット生活を提案しつつあります。図書館情報学はGAFAの存在の産みの親的な位置付けでもあったはずだということを本書中に少し触れました。人と情報を結びつけるという基本的な枠組を考えればこの問題にもっとコミットしてよいと思います。たとえば、出版と図書館との関係は結局のところ、書かれたものを管理するシステムの経営管理に帰着するわけで、私は前から出版流通の経済学が必要と言ってきたのですが、ネットワーク市場と公共経営をどのように組み合わせてモデル化するかということに帰着します。

迷いの二つ目は、本書では知と言葉の関係を議論してきたのですが、マルチメディアをどう考えるかです。19世紀後半以降の大衆社会の発現においては、読書やジャーナリズムよりも映像や音声、写真等のマルチメディアが無意識に働きかけていることが無視できなくなっています。これはメディア論でさんざん言われてきたことです。今の若い人は本を読むよりも効率的にニュースサイトやSNSの書き込みを読み、YouTube等の映像を行動の参考にしています。書き言葉の問題は19世紀で終了して、知はマルチメディアの作用によって媒介されるものとみるべきなのかという問題です。

三つ目は、日本的あるいはアジア的なロゴスとパイデイアの伝統をどのように考えていくかということです。これが地域的な知の在り方とも密接にからむのでしょう。文章中には、アルファベットとカナ・かな・漢字の関係とか言霊とか身体知などについて触れてはいますが十分な展開ができませんでした。一定の見通しはあるのですが、いずれ取り組みたいテーマです。







2021-09-03

『国際バカロレア教育と学校図書館—探究学習を支援する』の刊行(10月30日発売)

 
カバーイラスト|タカハシタケシ/TAKESHI TAKAHASHI
カバーデザイン|松本泉/IZUMI MATSUMOTO

アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館——探究学習を支援する』(根本彰監訳、中田彩・松田ユリ子訳)学文社, 2021.

原著:Anthony Tilke, The International Baccalaureate Diploma Program and School Library: Inquiry-Based Education, Libraries Unlimited, 2011.

(Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4762031062

が刊行されました。(店頭に並んだのは10月30日からです)

本書の著者アンソニー・ティルク氏は現在はオランダのハーグ・アメリカンスクールにいますが、かつて横浜インターナショナルスクールに8年いたことがある日本通の学校図書館員です。この著書は国際バカロレアと学校図書館の関係について概説した唯一の図書であり、国際バカロレアのカリキュラム展開において学校図書館および学校図書館員の存在が不可欠であることを理論的、実務的に記述しています。

11月23日開催の公開シンポジウム「国際バカレアと学校図書館」の詳細については→こちら

シンポジウム参加者には1割引(送料・消費税込2200円)での特別販売を行います。(10月13日追加)

次は本書掲載の「監訳者による序文」と目次です。


探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...