2019-03-11

故金森修氏の蔵書の行方

金森修氏は『サイエンスウォーズ』『バシュラール』などで知られる科学思想史家で、東大教育学研究科勤務当時の私の同僚だった方である。彼が会議等を休みがちだったというのは知っていたが、私は2015年に慶應に移ったので、コースが違うこともあり具体的な事情は知らないままでいた。そうしているうちに、2016年5月に逝去されたというニュースを知りたいへん驚いた。享年62歳だった。

科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。

さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。

奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.


著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。

金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。

日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。

これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。

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